もう少しだけ、曖昧なままで //落乱-鉢尾小説 万年時計のまわる音

「ただいま」

玄関に足を踏み入れると、若干涼しい空気が汗ばんだ肌をふわりと撫でた。冷房は節電のためやや高めの二十八度に設定されているはずだが、それでも蒸し風呂のような外に比べれば十分涼しい。
額に垂れてくる汗を肩口で雑に拭いながら靴を脱ぐ。ようやく蒸し暑さから解放されほっと息をついた。瞬間、独特の臭いが鼻腔を掠め、三郎は顔をしかめた。

「あっ、三郎おかえり~!ねえ見てみて~」

一呼吸遅れて、室内から明るい声がかかった。求めに応じて視線をやると、ドヤ顔の同居人と目が合う。
やや丸っこい顔立ちが柔和な印象を与える同居人こと勘右衛門は、二人がけソファの真ん中に座っていた。こちらへ高らかに差し出した片足の先には、原色に近い赤色が塗られている。なるほど、異臭の原因はこいつだったらしい。顔の横に添えられた右手には、爪先と同じ色に染まった小さな刷毛を持っている。

「最新トレンド☆可愛いだろ~」

勘右衛門はふざけたコメントを呈しながら悪戯っぽくウインクした。追って為される、きゃぴ☆という効果音が聞こえる――いや自ら口で言い放ちながらのぶりっ子ポーズがなんとも腹立たしい。
不愉快な臭いとふざけた態度の両方に、バイトから帰ったばかりの三郎は疲労も相まって苛立ちを覚えた。

「なーにが最新トレンド☆だ男の癖に!臭いんだよ落とせ!そして捨てろ!」

苛立ちに任せて文句を吐きながら鞄をその辺に放り出し、ソファにふんぞり返っている異臭の原因に摑みかかった。

「やぁだ~!」

勘右衛門は幼児のように単純かつ反抗的な返事をしつつ身を反らし、三郎の暴力的な腕を回避した。追撃をも器用に躱しながら、刷毛を容器に戻して蓋を閉める。
密閉されたのを幸いと三郎はそれを奪い取ろうとしたが、小瓶は一瞬早くソファテーブルの下へと転がされてしまう。目標を失った三郎は、仕方なく空いたばかりの現行犯の手を掴んだ。

「えぇい、放せぃ!暴力反対!」
「どの辺が暴力だ?言ってみろ!大体いい歳した男がマニキュアなんざ塗ってんじゃねーよ!」

しかし捕らえたと思ったのは一瞬だけで、三郎の手はすぐに振りほどかれてしまった。風評被害も甚だしい文句に怒鳴り返しながら、再び手を伸ばすもすぐに躱され虚しく空を切る。

「あっ、また言ったな?!性差別だぞ!ササヤイターに投稿して炎上させてやろうか!」
「やかましい、共有スペースに異臭垂れ流しおって!反省しろ!」
「そもそもこれはマニキュアじゃありませんー、ペディキュアですぅー」
「知るか!!てか人の話聞いてんのか!?」

低次元な言い争いをしながら、伸ばしては躱され、解かれては掴んでと攻防戦が続く。
ドタバタと逃げ回る勘右衛門はしかし、ソファの周りをうろちょろするだけで他所へ逃げ去る気配もない。よって三郎は割合すぐに彼を取り押さえることができた。
文句には取り合わず、向き合いの体勢で勘右衛門の身体を足蹴にしソファに押さえつける。机上の透明な液体が入ったボトルをひっ掴み、中身をコットンに含ませた。新たな刺激臭がツンと鼻を刺す。
臭いに顔をしかめつつ、三郎はソファから浮いている勘右衛門の片足を掴み寄せた。紅く染められた爪を、湿らせたコットンでぐいぐいと手荒く拭う。

「うひ!く、…すぐったいって~!」

勘右衛門は間の抜けた悲鳴を上げ、身を捩って笑い出した。手の中で足が跳ねたが、手に力を込め動きを制する。勘右衛門が暴れるせいで、手元が狂って上手く拭き取れない。

「大人しくしてろ」

笑いのたうつ勘右衛門を両足で押さえつけ直し、端的に命じた。既に三郎の頭は『如何にすればこの忌々しい臭いの元を綺麗に拭い去れるか』に切り替わっている。
勘右衛門はひぃひぃ笑いながら、手近にあるクッションを掴み寄せ胸に抱いた。同時に足の動きが、三郎の作業の妨げにはならない程度に小さくなる。どうやら腕に力を込めることで、反射的な衝動を抑えようとしているらしい。

妨害がなくなったところで、改めて勘右衛門の骨太で男らしい足を取る。爪の面積が広いため、コーティングされた表面が艶々と光って見栄えがいい。パキッとした紅い色は、確かに勘右衛門の肌の色によく合ってはいる。
だが拭い去った後に現れる彼自身の爪は、形も血色もよく健康的できれいだ。こちらの方がずっといいのにと三郎は思うのだが、それを口にすることはない。ただ黙々と、人工的な色を丁寧に落としていく。

「ン、…ふふ」

不意に鼻を抜けるような甘い音が微かに聞こえ、次いでそれを誤魔化すように淡い笑い声がした。たった一瞬の色っぽい音が耳に残り、三郎の中に唐突に欲望が湧き上がる。
音につられるように目線をあげると、勘右衛門は微笑を浮かべて三郎の手元を見つめていた。やや伏せられた目元には密に生えた睫毛の影が短く落ち、ほころんだ目尻は淡く滲んでいる。
笑い転げた余韻か薄っすらと朱のさしたまろい頬、柔らかく弧を描く口元と相まってなんとも幸福そうな表情である。その喜色に満ちた勘右衛門の様子は三郎の脳を甘く痺れさせた。

同じ大学へ進学することが決まった時に、三郎から提案したルームシェア。万年金欠児な勘右衛門は思った通り二つ返事で乗ってきた。
彼には下心などなかっただろうと思うが、誘った三郎にはめちゃくちゃあった。

まさか自分が同性を好きになるなんて、高校に入学して勘右衛門と出会うまでは思いもしなかった。ゲイになった訳ではなく、勘右衛門ただ一人に強く惹かれていた。
勘右衛門も自分と同じくノーマルな性嗜好であることは、出会った時から分かっていた。自覚したとて袋小路である。それでも、彼と距離を置くなんて考えられなかったのだからどうしようもない。

色恋でどうこうなれないのなら、誰よりも近しい『内側』の人間になりたいと思った。共に暮らせば自然と距離も縮まり『身内』になれるだろうし、勘右衛門のいろんな側面を知ることができるだろう。そんな邪な考えからルームシェアに誘ったのである。

だが共同生活が始まって一年と半年が経った現在、勘右衛門との関係は意外な展開を見せている。
勘右衛門も自分に対してそういう好意を持ってくれているのではないか、と感じることが増えてきているのだ。
多分、勘違いではない。まさに今現在の勘右衛門の表情や態度も、その推測を確信へと近づけてくれている。

本当にただペディキュアを楽しみたいのなら、勘右衛門なら三郎に邪魔されないよう、また迷惑を掛けぬように自室で塗ってくるだろう。少なくとも、落とすことを強要してくる三郎に協力などするわけが無い。大体、落とされている様子をあんな表情を浮かべて眺めている時点で、そうされることを望んでいたのだとしか思えない。疑う余地が無いと言っても過言ではないだろう。

勘右衛門に触りたい、そう思う場面は勿論これまでにも何度もあった。今だって、意図を込めてこの足を撫でて先ほどの悩ましい声の続きを聴きたい衝動に駆られている。なんならこのまま押し倒して、彼の全てを知りたいとすら思っている。
狭い二人掛けのソファでは現時点でも身体のあちこちが既に触れ合っている。そこここからじんわりと感じられる勘右衛門の体温に、どうしようもなく気持ちが逸り欲求が募る。

しかしこのなんとも言えない絶妙な距離感が、期待と喜びに満ちた甘い空気がひどく幸せでもあった。それはこの微妙な関係でしか生まれないもので、一度失われてしまったら再び味わえることはない。故に、もうちょっとだけこのままでいたい、そうも思うのだ。
だから今日も三郎は覚えた欲求をなんとか鎮め、彼の全ての足の爪から紅い色を拭い去ることだけに集中することにした。

「よし、全部落ちた」
「ちぇ~」

全ての爪から派手な色を落とし終え、三郎はようやく勘右衛門の足を解放した。解放された勘右衛門は、元通りになった己の爪先を眺めて詰まらなそうな声を上げる。先ほどの柔らかな表情はどこへやら、唇を尖らせた顔もぶすくれた態度も至っていつも通りだ。
少しばかりわざとらしくすら映るその様子を微笑ましく眺めていると、ふと勘右衛門が視線を寄越して目が合った。途端何故だかやや瞠目した彼は、リアクションもなしにふいと顔を背けた。そのまま、無理くり収まっていたソファからひらりと飛び降りる。

「はー、運動したら腹減ったぁ。そろそろ夕飯にしよっか」

こちらに背中を向けて背伸びをした勘右衛門が、間延びした声をかけてくる。三郎は直前の様子に少し引っかかりを覚えたがどうコメントしたものか迷い、結局そのまま会話に乗ることにした。

「今日の当番はお前だよな、メニューは何にするんだ?」
「ふっ、実はもう出来てんだよね~。今晩は腕によりをかけた…、」

勘右衛門はキッチンに向かう道すがら、半身で振り返り勿体つけたように言葉を切った。にまにまと笑ってこちらを見ている。その様子に三郎は面倒なやつだな、なんて思いながらつられて笑い、勘右衛門の求めに応えて口を開く。

「よりをかけた?」
「クッキンドゥーの麻婆豆腐だぞ!」
「クッキンドゥーかよ!!」

促した後が簡単に中華が作れると評判の商品名だったので、三郎は盛大にずっこけた。勿体つけておいてそれはないだろうと、思わずツッコミを入れる。しかし勘右衛門は、小馬鹿にしたような表情を浮かべて三郎を鼻で笑った。

「バッカお前知らないのか?お手軽な上に美味すぎる中華が作れるクッキンドゥーの実力を…!」

いやそこではなく。ややズレた反論に三郎はさらにツッコもうかと思ったが、ひどく愉快そうな勘右衛門の様子に矛を収めた。
別に構わないのだ、クッキンドゥーでも。丁度中華が食べたいと思っていた所だったので、勘右衛門も同じ気分だったという偶然の一致が嬉しいくらいだ。メニューと調理法のどちらに対しても、文句などない。

「かき玉スープも作ったんだ~。スープと麻婆持ってくから、ご飯よそってくれるか?」
「ああ」

当然のように配膳の役割分担を申しつけられ、三郎は素直に応じてソファから立ち上がった。
『勘右衛門の暮らしの中に自分がいる』という実感を得る度、一々嬉しくなってしまう自分はなんとお手軽なのだろうか。クッキンドゥーにも勝るとも劣らないなと一瞬思い、上手いこと言ったつもりかと頭に花が咲いている己の思考を笑う。

幸福に満ちた胸と同様に、空腹を訴えている腹も満足させてやらなければ。
三郎は緩む口元はそのままに、勘右衛門の後を追って夕食の準備をするべくキッチンへ向かった。

もう少しだけ、昧なままで


[2019/08/16]

鉢尾の日おめでとうございます!やったー珍しくエロじゃないよ!若干勘右衛門が善がってるけど!(オイ
今回のテーマはペディキュアです。だいーぶ前にペディキュアネタ大好き友人に頂いてからコネコネしてましたがようやく形になりました(笑)
両片思いって可愛くてイイですよね。私は切ない話をよく書きますが(性癖なので…笑)、お互いに何となく察しつつも明確にしないままにしている、っていうのもいいなあと思いまして。
両者共に意識はしてるので、スキンシップから少しエロい感じになっちゃうこともあって。なんせ中途半端な関係なので、微妙~な据わりの悪さだけが残ってしまうという…w
もうなんでもいいから早くくっついてヤッちまえ!!ってこっちがもだもだするやつです。最高ですね!(いい笑顔
しかし私が現パロ鉢尾書くと同棲ばっかりしてますね~性癖バレバレですね。
勘右衛門視点の補足も書きたいな~と思っているのと、他にもペディキュアネタで書きたいのがいくつかあるので、、いつか書けると…いいなあ……()

[ ][ ]