見えない、言えない、届かない //落乱-鉢尾小説 万年時計のまわる音

勘右衛門はもう何度目にかなるため息を深く吐き出した。寝床に横たわったまま、まだ鈍く痛む左腕を差し上げる。
右手でさすると曖昧だった痛みの輪郭が明瞭になり、手のひらにはやや硬い布の感触を覚えた。軽傷かつ利き腕でなかったことは幸いだったが、不自由なことに変わりはない。
嘆息し、ぱたりと両腕を降ろした。己以外誰もいない静かな空間に、賑やかな小鳥の囀りが遠く聞こえている。

穏やかな昼下がり。しかしどれほど目を凝らしても、勘右衛門の目に映るのは一様の闇だけだ。

(――あーあ、失敗したなあ……)

今一度、鬱々とした気分を吐き出した。
顔を手で探れば、指先には先刻と同様のやや硬い布が触れる。それはしっかりと、しかしきつ過ぎない絶妙な力加減で勘右衛門の両目を覆っていた。

毎度お馴染み学園長先生の突然の思いつきで昨晩突然敢行された、五年い組の実践実習。その潜入先で勘右衛門は、情けないことに敵の火器をもろに食らってしまったのだった。
火器と聞くと大袈裟に聞こえるが、怪我の程度は軽傷である。幸いにもそれが行動妨害を目的とした物であったため、直撃を受けた左腕の裂傷だけで済んだのだ。
最も大きな被害は、噴出した煙で視覚嗅覚を狂わされたことだった。だがその時点で既に忍務はほぼ完了していたため、計画が狂うことはなく混乱も生じなかった。故に勘右衛門は級友たちの助けを借りつつも己が足で学園へ戻り、実習はほぼ予定どおりの幕引きとなったのだった。

帰着した時には既に視覚も嗅覚も回復していた。しかし害された事実が覆ることはない。故に同輩たちによって即医務室へと連行された勘右衛門は、校医の新野先生から『大事を取って今日明日は安静にしているように』と言い渡されてしまったのだった。
そこまでは問題なかった。だがその指示につい渋い反応をしたのがよくなかった。結果、両目にも包帯を巻かれ自室へと強制送還される羽目になってしまったのである。

視界が閉ざされている現状は堪らなく不自由だ。実習終盤は級友たちの手を借りざるを得ず、午前中は眠って過ごした勘右衛門の体力は既にほぼ完全に回復している。にもかかわらず思考し口を動かすことくらいしか満足にできることがないのだ。
同室の兵助は現在、勘右衛門の代わりに実習の報告に出ていて不在である。級友たちはまだ心身を休めているだろうし、他の忍たまたちは授業中だ。話し相手になってくれる者などいない。手持ち無沙汰な勘右衛門には己が失敗を省みる他、不甲斐ない現状にため息をつくくらいしかすることがない。

再確認した己の現状を嘆き、改めて深く息を吸い込む。そのまま憂鬱な気分を吐き出そうとして、ふと微かな足音がこちらに近づいて来ているのに気がついた。
意外すぎる客人に勘右衛門は瞬いた。ゆっくりと上体を起こして座った姿勢に変え、珍客の来訪を待ち受ける。

「勘右衛門、いる? 入るよ」
「どーぞ」

室外からの柔らかな呼びかけにおやと思いつつも、軽い調子で即応する。するとすぐに戸板を動かす音がして、一人分の気配が室内に入ってきた。

「――起きてて、大丈夫……なのかい……?」

よく知る気配の客人は、一瞬不自然な沈黙を挟んだのち声を潜めて尋ねてきた。同時にトンと音を立て空間が閉じる。
恐らく顔に包帯を巻かれた己の姿に驚いたのだろう。そう推測した勘右衛門は友人を安心させるべく声の方へ笑顔を向けて頷いた。

「ああ、見た目大袈裟なだけで大したことないよ。二日もすれば包帯も取れる」
「……本当かい? まだ痛むんじゃ、」
「平気だって。目のコレは、安静指示に不満こぼしたら巻かれちゃっただけだし。暇を持て余してたところだ」

そろりと歩み寄って来る彼に訝しむように重ねて問われ、肩をすくめ苦く笑いながら説明した。相変わらず心配性だ。

「そう? ならいいんだけど……」

暇、という単語で気が抜けたのか、彼はようやく安堵したように息をついた。静かに枕元まで寄ってくると傍らに腰を落ち着ける。それを音と気配で確認してから、勘右衛門は呆れ混じりに笑いつつ満を持して口を開いた。

「で? 俺はいつまでお前の茶番に付き合えばいいんだよ、三郎」
「――――…………なんで分かったんだ」

名指しで問えば、彼は暫しの沈黙を経てぶっきらぼうに問い返してきた。先刻までとはまるで別人の、無愛想すぎる口調である。

「分かるさ」

あからさまにぶすくれている三郎が可笑しくて、勘右衛門は軽い調子で請け合いながらつい笑みをこぼした。

足を運ぶ微かな音、息遣いひとつ、いや気配だけでそれが三郎と分かる。事実、足音に気付いた時点で勘右衛門は来訪者が三郎だと察していた。長いこと彼を見つめてきたのだ、街中ならいざ知らず学園なんて狭い世界で間違えるはずがない。……本人はもちろん誰に言えるはずもなく、口にするつもりもないけれど。
授業中であるはずの今やって来た理由は定かではないが、勘右衛門が負傷した報せをどこかで耳にして来たのは確かだろう。雷蔵のふりなんて悪ふざけを仕込んできた点からして、怪我の原因や程度まで把握しているに違いない。
避けられ得ぬこととはいえ、己の失敗を知られたことに落胆は禁じ得ない。しかしあの三郎が誰よりも早く見舞いに来てくれるなどとは思ってもいなかったため、喜びが遥かに優った。

「……まったく、勘右衛門には敵わんなあ」

ただにこにこしていると、諦めたようなため息に続いてやや呆れた風情のぼやきが耳に届いた。どうやら先の質問に勘右衛門が答えるつもりがないことを悟ったようだ。三郎の零した特に意図があるわけでもないだろうその言葉に、勘右衛門は一層いい気分になる。

「触るぞ」

続いて彼が口にした脈絡のない宣言に、勘右衛門は思わずぽかんとした。想定にない展開である。目が無事だったならぱちくりとしていたことだろう。
理解が追い付かない。いや、現在の状況と彼がわざわざ宣言した点を鑑みれば自明ではある。しかし何故、三郎が勘右衛門に触るなどというのか。

「いやんえっち♡ どこ触る気だよ♡」
「ッ腕の包帯を替えるだけだ! 伊作先輩に頼まれたんだよ!」

困惑の末に己が身を抱き締めるように身を捩ってみたところ、何故か即座に噛みつかれた。その迫力に、そんなに怒らなくてもとやや気圧される。一方で、早口で捲し立てられた目的に素直に納得した。
学級委員長委員会は、他の委員会や先生方から雑務の代行を頼まれることがままある。一員たる勘右衛門もそれはよく知っていた。軽度の外傷に薬を塗り包帯を巻く程度なら、上級生にもなれば誰でもそれなりにこなせる。目を封じられておらず負傷部位が腕でさえなければ、勘右衛門自身でも十分対応できる範囲だ。
授業中にも拘わらず彼がひとり訪れたのは、保健委員長の依頼故だったらしい。――それはそうだろう、三郎の中に勘右衛門に対する特別な何かがあるはずもない。
勘右衛門は納得しながらも『特別な何か』による自発的な見舞いでなかったことに落胆している己に気がついて、胸の内だけで苦く笑った。

(――ていうか先に目的を言えよな、目的を)

あり得ない期待を勝手に抱いた己を棚上げし、落胆を不満に変換して心の中だけで文句を垂れる。
その傍らで、勘右衛門の胸中など知るはずもない三郎は早速作業に取り掛かったらしかった。ごそごそという物音に続いて小さく硬質な音が響き、嗅ぎ慣れた独特の薬の匂いが鼻腔を掠める。

「なるほど、悪いな。……痛くしないでくれよ?」
「するか阿呆」

冗談のよすがを引っ張り小首を傾げながら腕を差し出せば、即座にごく軽い悪態が返ってきた。しかし彼はその口ぶりに反して、傷を気遣うように勘右衛門の腕にそっと触れてくる。

するすると包帯が解かれていく。何も見えない状態で三郎に触れられている――その状況に、胸で鼓動している心臓がその間隔を狭めていくようだ。包帯越しだというのに、彼が触れているところが仄かに熱を孕む。ゆるく握った手のひらがじっとりと湿ってきた。勘右衛門は焦るような落ち着かない気分に支配されながらも、それを三郎に悟られまいと意識的に平静を装う。
ほどなくしてすべて解き終えたのだろう、彼のややひんやりとした手が直接腕に触れた。次いで僅かな痛みがピリピリと腕に響き、漂う薬臭が濃さを増す。どうやら傷に薬を塗る工程に移ったらしい。
保健委員長の依頼を黙々と手際よくこなしていく。そんな三郎に、勘右衛門の浮ついていた気持ちも次第に落ち着いていった。

「……まーた庇ったんだろ」

新たな包帯を巻き始めたところで、ふいに三郎が脈絡のない言葉を吐いた。呆れた風に紡がれたそれには、しかし明らかな意図が込められている。思いがけない指摘を受け、勘右衛門の心臓がどきっと跳ねた。

「なにが?」
「い組は実戦に弱い奴多いもんなあ~」

素知らぬふりで応じたが、彼はそれを無視して話を続けた。すべて知っているとでも言いたげなその態度に、どう応じれば誤魔化せるか一瞬悩んだ。が、すぐ失態に気がついて思わず顔を顰める。返答に詰まったこと自体が、指摘は図星だと答えているに等しい反応だった。

「――……俺がドジっただけだっつの」

ついまろび出た言い訳に、決まりの悪さが露骨に滲み出ていた。不貞腐れた風に響いた自身の言葉に、勘右衛門は一層決まりの悪さを覚えて唇を尖らせる。
此度の怪我は勘右衛門が下手を打ったが故に負ったものだ。それは間違いない。だが元を辿れば、勘右衛門が級友を庇おうとして起こした行動が発端にあった。
助けようとして助けられる側になるなど、格好悪いにもほどがある。幸いにもその因果には価値がなかったため報告には含めなかったのだが、何故バレてしまったのだろう。素直に認めたような形になってしまったこともあり、大変居心地が悪い。

しかし意外にも、と言うべきか。三郎はそれ以上何も言うことなく、ただ黙々と包帯を巻き続けるだけだった。おちょくってくるかと身構えていた勘右衛門は肩透かしを食らった気分になった。
二人だけの空間を、奇妙な沈黙が満たす。

やがて衣擦れの音がして腕が柔く締めつけられた。包帯の端を結んで固定し、手当ての全工程を終えたのだ。使命を果たした三郎の手は間もなく離れていくだろう。勘右衛門はそれを少しばかり寂しく思った。
しかし不思議なことに、三郎はそのままピタリと動きを止めた。想定にない展開に困惑していると、巻き直されたばかりの包帯越しに温かな何かが微かに触れた、気がした。

「……三郎?」
「ほれ、これでしまいだ。早く治るよう大人しくしてろよ」

やや戸惑いつつ名を呼ばうと、ほぼ同時に腕はあっさりと解放された。直前の謎の空白について尋ねたかったのだが、すぐに傍らからごそごそかちゃかちゃと音が立ち始めた。それほど経たぬ内に、彼がぱっと立ち上がる。

――もう行ってしまうのか。優秀な人間は何を取っても迅速なことだ、疑問を投げかけるどころか余韻に浸る暇もない。
名残惜しく思うも、三郎は保健委員長の代理で手当てに来ただけなのだ。己が失敗が原因で軽傷を負い念のための安静を言い渡されただけの勘右衛門には、彼を呼び止める正当な理由などなくこじつけてまで拘束する権利はない。

「へいへい、分ーかってるよ。包帯、ありがとな」

故に勘右衛門は軽い調子で右手をひらりと差し上げて礼を言い、素早く部屋を出ていく三郎の気配をただ見送った。

歩き慣れた長屋の廊下をずんずん進み、自室に入ると後ろ手に戸を閉めた。そのまま戸板に背を預け、ずりずりとずり下がりながら細く長く息を吐き出す。その吐息は安堵と苛立ち、そして呆れで構成されていた。

「勘右衛門が医務室に担ぎ込まれた」

その話を聞いた瞬間、三郎は心臓が身体から抜け落ちてしまったかのような錯覚に陥った。指先から血の気が引き、頭がぐらぐらして視界が狭くなる。脳裏に浮かんだ穏やかに笑っている見慣れた勘右衛門の姿が、黒い影に蝕まれるように崩れて消えていく。
気が付けば三郎は医務室に飛び込んでいた。だがそこにいたのは保健委員会委員長ひとりだけで、目的の人物は影も形もない。焦りのまま彼に行方を尋ねれば、勘右衛門は既に自室へ移ったのだという。
重傷者の治療で肝要なのは適切な時に適切な処置を施すことだ、これほど早期に自室へ移されるなどありえない。そう疑問を呈すれば、彼は不思議そうに瞬いて勘右衛門は軽傷だと答えた。左腕以外に外傷はなく、医務室へも自身の足でやって来たという。どうやら耳にした情報は誇張されていたらしい。

三郎が正確な情報を掴んだちょうどその時、授業開始の鐘が鳴った。
自室に移されている時点で勘右衛門が軽傷であることに疑いの余地はなく、新野先生の診察後なら特に懸念もない。五年ろ組の級長たる己は当然今からでも授業に出るべきだろう。
しかし、どうしてだろうか。己が心臓は未だ不快なほど大きな音を立てて収縮し続けており、足はその場から動こうとしなかった。

「ちょうどよかった。鉢屋、悪いんだけど尾浜の薬を替えに行って貰えないかな?」

その場に立ち尽くしていると、そんな言葉と共に替えの包帯と傷薬が差し出された。此度の実習で消費された薬の補充で忙しいため代行してくれると助かる、とのことだった。
保健委員会のお使いなら授業を欠席する正当な理由になる。そう考えた三郎は、彼の打診を二つ返事で引き受けることにした。

人気のない長屋の廊下を足早に進んでいく。五年い組は本日休暇扱いとなっているはずだが、彼らの部屋がある辺りに差し掛かっても笑い声ひとつ聞こえてこない。皆くたびれて寝入っているのだろう、いびきや寝言らしき音のする一部を除きどの部屋もしんと静まっている。
やがてたどり着いた目的の部屋も同様だった。だが気配を探った限り、部屋の主は眠ってはいないようだ。
怪我人の休息を妨げずに済むことに胸を撫で下ろした三郎は、早速声をかけようと口を開き――何も言わぬまま閉じた。ふと脳裏を、先刻の保健委員長の顔がよぎったせいだった。

一つ年嵩の不運に愛されしかの先輩は薬を託す際、なんとも言えない生温かい目をしていた。三郎の状態を、その原因たる感情に至るまで理解していたかのようなその表情に周回遅れで据わりの悪さを覚えたのである。
だがお使いを免罪符に授業をサボっている手前、ここまで来て何もせず戻るわけにはいかない。そもそも先輩に対しては今更取り繕いようがなく、説明という名の言い訳をするのはむしろ墓穴を掘るようなものだろう。勘右衛門の早期治癒のためにも使命は遂行せねばならないし、免罪符は勘右衛門に対しても此度の訪問の建前として十分通用するはずだ。取り乱していた己を知られる可能性は低い。大体、使命を放り出して授業に出たとてまともに集中できないだろうことは容易に想像できた。
一呼吸の間にそのようなことに考えを巡らせたもののそれでも据わりの悪さを拭い切れなかった三郎は、咄嗟に雷蔵のふりをすることで折り合いをつけることにした。気の優しい雷蔵が見舞いのついでに保健委員長の頼み事を請け負った、ということにしようと考えたのである。

「勘右衛門、いる? 入るよ」
「どーぞ」

相棒の穏やかな声音を模して許可を乞うと、即座に朗らかな返答があった。慣れ親しんだ穏やかな声に乱れていた心が整っていく。
少しばかり落ち着きを取り戻した三郎は気兼ねすることなく戸を開け、しかし室内に一歩踏み入ったところでその場に凍りついた。

部屋の主は、夜着姿で目と腕に包帯を巻かれ布団に座していた。薄暗い室内にぼんやりと浮かび上がる白い色が、何故か目に突き刺さるように感じられる。痛々しいその姿に、知らず身体が震えた。
五年生ともなれば、合戦場や敵の城など危険な場所に潜ることも増える。故に安静を厳命されるような事態に陥ることも特別珍しいことではなくなってはいた。
勘右衛門がそのような状態になることは確かに今までほとんどなかった。しかしそれはただ運が良かったというだけのことだ。実際、多少の不自由を強いられる程度の怪我を負って帰ってきたことはこれまでに何度もあったのだ。
だが深刻そうな見目とは裏腹に、勘右衛門は暇だと零し笑顔を見せた。彼はいつもと変わらぬ緩い空気を纏っている。事実軽傷だと認識できてようやく三郎は緊張で強ばった身体から力を抜いた。

しかし、穏やかな気持ちでいられたのは瞬きほどの時間だけだった。

「で? 俺はいつまでお前の茶番に付き合えばいいんだよ、三郎」

咄嗟に選んだ、最も信頼性の高い仮面。その下に隠したはずの己の正体など勘右衛門には既にお見通しであったらしい。由々しき事態である。だが断定されてなおしらを切るなど格好悪くてできるはずもない。

「……なんで分かったんだ」

渋々ながらも指摘を認め理由を問うた。その口調に決まりの悪さが滲んでいたことに三郎は顔を顰める。しかし彼はただ朗らかに笑いかけてくるだけだった。
大変遺憾ではあるが、勘右衛門にはしばしば変装を見破られている。故に今後のためにも見抜かれた原因を確かめておきたいところではあった。だが彼は未だ邪気のない笑みを浮かべているだけで、重ねて尋ねても教えてはくれなさそうだ。怪我人に不要な負荷をかけるわけにもいかないだろう。そう考え、三郎は渋々ながら問い詰めることを諦めた。

ならば為すべきことをと頭を切り替え彼の左腕へと視線を移す。
保健委員会委員長から託された使命は、勘右衛門の腕の傷に薬を塗り直すことだ。その工程は現在巻かれている包帯を解くことから始まる。だが彼は今、視覚を封じられている状態なのだ。突然触ったりしたら驚かせてしまうに決まっている。故に当然の配慮として、三郎は己の行動を簡潔に予告した。しかし。

「いやんえっち♡ どこ触る気だよ♡」

一拍おいて、何故かおどけた調子の意味深な言葉が返ってきた。しなを作ったその応答はひどく冗談めいていたが、内容が内容だったため三郎は口が心臓から――……否、心臓が口から飛び出すかと思った。

「ッ腕の包帯を替えるだけだ! 伊作先輩に頼まれたんだよ!」

思わず、正当な理由を声を荒げて主張していた。言い切ってから、動揺していますと言わんばかりの反応になっていたことに気がついて精神的および物理的に閉口する。
妙な意図での接触宣言ではもちろんなかった。しかし三郎の心の深きには、邪な願望がないこともないのである。『火のない所に煙は立たぬ』、奥深くにしまい込んできたつもりだった己が欲望を見透かされたように思え動揺したのだ。

だがそんな拙すぎる反応をしてしまったにも拘らず、勘右衛門は三郎の説明に納得してくれたらしかった。……天然というべきか鈍感というべきか。当然ながらこの感情を知られるわけにはいかないため、運が良かったといえば確かにそうなのだが。あれだけあからさまだったにも拘わらず追求されないのは、なんとも言えず物悲しい。
本気で分かっていないのか意図的にとぼけているのかは不明だが、どちらにせよ脈なしだと突きつけられているようで正直に言って少し凹んだ。
だが三郎には遂行すべき使命があるのだ、しょぼくれていても仕方がない。それ故、意識的に瞬きをして侘しさを振り落としてから差し出された彼の腕を慎重に受け止めた。

傷に障らぬよう丁寧に包帯を解いていく。取り払った下から現れた傷は、確かにそう深いものではなく血も既に止まっていた。位置としては肘下の外側。裂傷の周囲が軽い火傷と打撲らしき状態になっているようで、火器による負傷であることが窺える。傷をつぶさに観察して三郎は思わず目を眇めた。
真新しい傷口に慎重に薬を塗り付け、その上から清潔な包帯を丁寧に巻き直していく。

「まーた庇ったんだろ」
「……なにが?」

包帯を巻き付けながら推察された怪我の背景に軽い調子で言及すれば、勘右衛門はすっとぼけた声を出した。想定の範囲内の反応ではあったが、わざとらしく感じられるその声音にややイラッとする。

「い組は実戦に弱い奴多いもんなあ~」

苛立ちが表出しないように気を配りつつ、重ねて挑発するような言葉を選びカマをかける。すると勘右衛門は一瞬、不自然なほどあからさまにすべての動作を停止した。

「……俺がドジっただけだっつの」

一拍置いて、ムスッとした顔になった勘右衛門は自白と寸分変わらない言葉を口にした。唇を尖らせたその表情には不満と羞恥が入り交じっている。

そんな彼を見て、三郎は腹の奥から苛立ちに似た感情が急激に湧き上がってくるのを感じた。それが勢いのまま口から飛び出していかないようぐっと呑み込む。しかし存外激しいその感情を呑み込むので精一杯になってしまい、当たり障りのない応答をする余裕を失ってしまった。結果、微妙に居心地の悪い沈黙がおりた。
しかも無理に呑み込んだためなのか、湧き上がる感情は落ち着くどころか時と共に激しさを増していくようだった。このままでは安静を言い渡されている勘右衛門にぶつけてしまいかねない。そう思った三郎は薬を懐に仕舞っ使用済みの包帯を雑に抱え上げると、彼に大人しくしているよう釘を刺してから急ぎ部屋を後にしたのだった。その足で自室へ向かい、今に至るというわけである。

戸板に身を預け座り込んだまま、己が手のひらとそこに乗っている包帯を眺めた。くしゃりと雑に丸められた包帯は、勘右衛門のものだろう血でところどころが赤黒く汚れている。
それが巻かれていた、先ほどまでこの手に収まっていた彼の傷だらけの腕を、そこに刻まれた真新しい傷を思い返す。併せて脳裏で再生された直前までのやり取りに、あの時の苛立ちに似た感情が一層激しく噴き出した。三郎はそれを噛み締めるように己が手を、手中の包帯をぐっと握りしめる。

――面倒なことからはのらりくらりと見事に逃げ回ってみせる癖に、危険なところにはほいほいと首を突っ込むのだ、あの男は。
……いや、それらの行動を取ったのが彼が級長の立場にあり周りより秀でているが故だったことも、その場にいたのが自分だったなら同じ行動を取っていただろうことも理解している。
それに、彼も己と同様に一流の忍者を志している忍たまだ。忍者は生き延び情報をもたらすのが本分である。裏を返せば命の危険が常につきまとうということだ。そんなことは上級生ともなれば皆正確に理解している。その現実を肌で感じてきてなお、忍者として生きる道を選ぼうとしている者だけが上級生になれるのだから。それは同輩の誰をとっても同じことで、もちろん三郎も十二分に理解している。
してはいる、のだが。

(――頼むから。私より先に、――私の耳に届く場所で。……死んで、くれるな……)

言えるはずも叶うはずもない、歪んだ祈り。それは思うことすら憚られる真の願いの裏返しでしかない。
先刻包帯越しにそっと口付けた、我ながら呆れるしかないそれを今一度心の中で唸るように唱えてから、三郎はただ静かに瞑目した。

えない、えない、かない


[2023/3/3] 鉢尾覆面小説企画(2022年8月開催)

掲載が大変遅くなってしまったのですが2022年の鉢尾の日に開催された鉢尾覆面小説企画への参加作品です。
テーマは『五感』。どの感覚をどのように使ってもいいということでしたので、テーマに沿っていることが分かるけど
ふわっとすべてが取り込まれているのでどれかと言われると難しい、みたいなのを目指して書きました。
ですので、「この辺視覚だな」「この辺は聴覚」とか考えながら読んで頂いても楽しい…?かも…?です。笑

――などと言いつつ。白状すると、メインに据えたものは明確にあります。実は五感ではなく『第六感』的な……感覚?
なんて表現すればいいのか……。勘右衛門パートの「勘右衛門には三郎が分かるが、それがどうしてかを言語化するのは難しい」
っていうのが書きたかったんです。
というわけで本当のところ、書きたい主題が『五感』ではなかったんで、それを隠しつつルールに沿うための『ふわっと五感』を
狙っていたというか……。怒られそうだったのでスペースでも言えなかったんですけど(笑)
絶妙にルール違反を回避しようとしててすいませんwでも六ツ時はやっぱり書きたい物しか書けない人間なので…!
(一応)違反はしてないはずなので許されたい…!いや本当、リクとか貰ってバンバン書けてる人なんなの?すごい羨ましい。

ちなみに三郎サイドも『三郎が勘右衛門が進んで表明しない(あるいは隠している)事実を言外から察せる』ことが
書きたかった気がするので、全体的に説明が難しいものを書きたかったみたいですね。
言語のみで物語を綴る媒体たる小説で何をやっているのか……ぼんやり生きてますね、六ツ時。
次点テーマは触覚かな? 三郎が包帯越しに口づけたところも書きたかったことなので。(取って付けたような説明)

アンソロみたいにテーマがあって、それに副って書くというのは、かなり昔に頂いたキリリクを除いて二度目の挑戦でしたが
苦手と言いつつ楽しく書かせて頂いて、推理にも興じて、まさかの全問正解してと大満喫してしまいました!笑
いやーびっくりしました。ぶっちゃけほぼ解析読みしかしてない(オイ)のでなんだか申し訳なかったです……;
でも素敵に整えて頂いた御本を頂戴できちゃったし嬉しかったです。また機会があれば参加したいところですね。
時間があれば主催もしてみたい……けど果たして私にそんな能力があるだろうか。苦笑

各所に怒られそうな話ばっかりでしたね。こーんな戯れ言まで読んでくださった奇特な方、是非ともオフレコでお願いします(平伏)
お読み頂き、無駄に長い雑談にまでお付き合いくださりありがとうございました!

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