ぬいぱにっく!~恐怖の饅頭の段~ //落乱-鉢尾小説 万年時計のまわる音

ぬいにっく
の饅頭の段~

 その日鉢屋三郎は、日頃は気兼ねなく歩いている学級委員長委員会の部屋へと至る廊下を、ごく慎重に進んでいた。
 普段から息をするように殺せている足音さえ意識的に忍ばせ、目標の部屋の気配を探りつつ距離を詰めていく。やがて部屋の前に至ると、戸の脇の壁に背中を預ける格好で貼り付いた。その場から上体を乗り出し、わずかに引き開けた戸の隙間から中を覗く。
 人の気配のなかった委員会室は、当然無人だった。それでも警戒は解かぬまま、隅々に視線を投げつつじりじりと戸を引き開けていく。
 頭が通る程度の幅が開いたところで、戸口から首を突っ込み念入りに室内を見渡した。だがやはり、誰もいない。それを確認してようやく緊張を解いた三郎は、詰めていた息を吐き出してから室内へと踏み入った。

 勝手知ったる委員会室に、三郎がこんなにもおっかなびっくりやって来たのは、他でもない。昨日、同輩の尾浜勘右衛門と喧嘩してしまったからだった。発端はごく些細なことだった――客観的に見れば。

 昨日も、学級委員長委員会の面々は、予定外の仕事に追われていた。原因は言わずもがな、学園長先生の突然の思いつきである。期日は近く、やるべきことは山を成している。故に日が暮れて後輩二人を先に帰した後も、上級生二人は引き続き学園中を奔走せねばならなかった。
 だが必死に駆けずり回った甲斐あって夜更けにはどうにか、書類の処理を除くほぼすべての作業完了に漕ぎ着けた。

「やれやれ、やっと終わりが見えて来た……。はぁあ……、も少し易しい思いつきにして欲しいもんだよなァ」

 這々(ほうほう)の体で委員会室へと戻ったところで、勘右衛門が苦笑まじりにため息をついた。同じく疲労困憊(こんぱい)で自席に着いた三郎は苦い笑いを返しうなずく。

「まったくだ、さすがにくたびれたよ……。なあ、今日はもう遅いし書類は明日にしないか?」
「さんせ~い、俺もう指一本動かしたくないよ……」

 営業終了を提案すれば、勘右衛門は一も二もなく賛同するなり力尽きたように文机に突っ伏した。彼の丸い頭頂部が三郎の眼前に晒される。彼の軌跡を追うように摩訶不思議な髪が肩や背、机の上に重たげに広がった。
 いたく気の抜けた同輩の姿に、三郎の口元がついゆるりと弧を描く。だが瞬きの内に笑みを消し表情を引き締めると、密かに息を深く吸った。

「そういや、最近峠にできた茶屋に先日雷蔵と行ったんだが」

 たった今思い出したかのように切り出し、自然な間を意識しながら小さく息を吸い直す。

「しんべヱに聞いてたとおり饅頭が絶品でさ。いい粉を使ってるんだろうな。ああ、茶も美味かったから水もいいのかもしれない。他に団子もあったんだが、そっちもすごく美味そうだった」

 ゆったりとした口調を意識して、大袈裟過ぎない程度に抑揚をつけ茶屋を賞賛する。現地で押さえてきた情報も漏れなく織り込んだ上で、素晴らしい記憶を噛み締めるかのように天井の方を見やった。

 世間話をしているにしては、息継ぎや話し方に意識が向き過ぎている。それは三郎の心の臓が今、普段より速い鼓動を刻んでいるせいだった。脈の速さ故か妙に浅くなっている呼吸のせいで不自然な早口になり、勘右衛門に不審がられることを懸念しているのである。
 話題の軽さに釣り合わない緊張具合が示しているとおり、自ら始めたこの話題は三郎にとって単なる世間話などではなかった。故に目的を果たすべく、反応のない丸頭を注視したまま何気なさを装って言葉を続ける。

「立地がいいから席からの眺めも最高でな。あれは一見の価値があるぞ」

 実際彼に響くかは分からないが、他の付加価値についても触れてみる。そして少しでも魅力的に聞こえるようにと、顔の見えない勘右衛門に微笑みかけた。

 訳知り風に材料の質にまで言及しておいてなんだが、三郎は饅頭ツウなどではまったくない。むしろ甘味に対する関心は人並みかそれ以下だ。付加価値として挙げた美しい景色にも、興味がないとは言わないがわざわざ足を運ぶほどの熱意は持ち合わせていない。写生(スケッチ)を嗜んではいるが、趣味として楽しんでいる乱太郎とは違い変姿の鍛錬としての意識が強い。
 そんな三郎が峠の茶屋を熱心に褒めちぎるのは、ひとえに目の前にいる丸頭の関心を引きたいからだった。だが肝心の勘右衛門は、未だ文机に突っ伏したまま身動ぎする気配さえない。
 彼の関心を得られたかは不明だが、今更引き下がれはしない。やむを得まいと三郎は、緊張に乾く唇を舐めて潤してから意を決して口を開いた。

「……だから、次の休みに行かないか? ――私と、二人で」

 直球の誘い文句を一息に伝え、誤解の余地を残さぬよう前提となる条件を後から添えて強調する。

 そうとも、ここまで言えばお分かりだろう。此度(こたび)のエセ世間話の目的は何を隠そう、勘右衛門をでえとに誘うことだったのだ。
 ここまで明け透けな誘い方ではもはや告白をしているにも等しい。だが勘右衛門が相手では、あからさまなくらい明確に伝える必要があるのだ。でなければ勇気を振り絞って誘った意味がなくなってしまうことを、大変遺憾ながら三郎はよく知っていた。

 まず、目的を装った建前ありきで誘うと、かなりの確率で当日予期せぬ同行者が召喚されている。だがこの場合(パターン)は外出できるだけまだマシな方だ。勘右衛門が別件のついでに用を済ませて来てしまい、外出自体がなくなることが多分にしてあるのである。それは真の目的を知らない彼が親切心でしていることだ、文句を言うなどできようはずもない。そんな有能で気の利くところも彼の魅力の一つなのだが、真の目的を隠している三郎は、内心涙しつつただ礼を述べて予定を白紙にする他なくなってしまうのである。

 そのような数多の失敗を経て、三郎は悟ったのだ――天然ボケには剥き身でぶつかるしかないのだと。それで本日、決死の覚悟で勘右衛門を直球ででえとに誘うに至った、というわけだった。

 鉢屋三郎一世一代の求愛(とほぼイコールなでえとのお誘い)に、しかし勘右衛門は未だ無反応のままだ。この話題を振る直前まで会話が成立していたのだ、聞こえていないはずはない。つまり彼は意図して無視(スルー)しているのだ。

「おい、聞いてるのか?」
「聞いてる聞いてる」

 不機嫌も露わにせっついたところ、ようやく反応が返ってきた。ただし彼が文机に突っ伏した体勢を変えることはなく、声音には明らかに苦笑が滲んでいる。
 ……外出に誘っただけで苦笑される謂れはないと思うのだが。とりあえず、渾身の口上でも大して興味を惹けなかったのは確かなようだ。彼の反応には不満を覚えたが、今最も重要なのはでえとの諾否の方である。故に三郎は苛立ちを無理やり呑み込んで朗らかな態度を繕った。

「で、どうなんだよ。次の休み」
「えー、俺はいいよ。また雷蔵に付き合って貰えば? お土産、楽しみにしてる~」

 今度は即、返答があった。だが顔を上げぬまま手だけをひらひら振るという雑な態度で、迷いもせずに辞退するという。挙げ句愛しき相棒ではあるが、他の人間を推薦してくる始末だった。表情こそ見えないが声音からして、彼が今なお苦笑を浮かべていることは明らかだ。三郎は苦々しい思いで唇を歪めた。

 先約があるのならそう言うだろうし、土産に言及したのだから、甘味に興味がないわけでもないのだろう。店のある峠は、五年生の足なら散歩程度の気軽さで行って来られる距離だ。ならば彼が寸分の迷いなく辞退したのには、それらの『一般的に想像される理由』以外の理由があってのことと見て然るべきだ。
 そして悲しいかな、三郎には『それら以外の理由』に心当たりがあった。

「……私と行くのが嫌なら、はっきりそう言えばいいだろ」

 不貞腐れた気持ちのまま、喉の奥から絞り出すようにして恨み言を垂れる。

 わざわざ二人きりの時に誘っているのに、当日にはいつも誰かしら連れてくる。ならばと『二人で』と明言したら、甘味(目的)に関心はあって特別理由もない様子なのに、即断られた。思い返せば、まともに二人だけで外出したのは、学園長先生に仰せつかった忍務の時くらいである。
 加えて三郎は、以前から勘右衛門との間に心理的障壁があるように感じていた――不都合な現実故に目を逸らしていたけれど。
 そんな数々の状況証拠を総合すれば、簡単に導ける『それら以外の理由』だった。

 唸るようにこぼした恨み節に、勘右衛門がようやく顔を上げた。こちらを窺う丸顔は怪訝そうに眉を寄せている。

「……はあ? 誰もそんなこと言ってないだろ?」
「そうとしか取れないだろ! 指摘されてまだはぐらかそうとするなんて性格悪いな!!」

 性懲りもなくすらっとぼけられ、ついカチンと来た。結果気がつけば、反駁に続いて単なる悪態が口を突いて出て行っていた。
 流れるように罵られたためか、勘右衛門は一瞬ポカンとしていた。が、その顔に見る見る内に呆れと苛立ちが広がっていく。

「ッはぁあ〰〰?? なんで外出断っただけでンなこと言われなきゃなんないんだよ! 性格悪いってんなら、勝手な被害妄想で人を罵る鉢屋の方だろ!」
「いーや絶対勘右衛門だッ! さっきも私の話を無視した挙げ句鼻で笑ったじゃないか! 人の話は素直に傾聴するのが筋ってもんだろ!!」

 正面から反論されて、三郎も負けじと眉を吊り上げた。先ほど呑み込んだ苛立ちをも引っ張り出して当て擦ると、勘右衛門が心外だと言わんばかりに目を眇める。

「俺がいつ鼻で笑ったよ? それも鉢屋の被害妄想じゃん。大体雑談ごときに傾聴って……、聞くも聞かないも個人の自由だろ……」

 勘右衛門が呆れたようにため息をつく。聞き捨てならない発言に、三郎は目を剥いた。

「ごとき!? 今ごときって言ったか!?!? お前には人の気持ちを思いやる心はないのか!?!? この人でなし!!」

 勇気を振り絞って切り出したでえとの誘いを、『雑談ごとき』で片付けられたことが我慢ならず、衝動のまま畳み掛けるように噛み付いた。
 怒りを込めて睨め付けた先で、勘右衛門が片眉を跳ね上げる。彼は一層呆れたように目を閉じると、首をふりながら荒々しくため息をついた。次いで深く長く息を吸い、一拍の間を置いてくわっと両目を見開いた。

「その言葉、そのままそっくりお前に返すわこの脳内万年お花畑の雷蔵馬鹿ッ!! 色ボケウスラトンカチッッ!!」

 突然、大音声で怒鳴りつけられた。勘右衛門がこれほど声を荒げるなど珍しいことである。故に喧嘩を売った身でありながら三郎は驚きのあまり、思考停止に陥った。
 だが口喧嘩に置いては、言い返せなければ負けである。そんな思考が働いた三郎は、彼の発言を反芻しながら無理やり口を動かした。

「おっ、お花畑ぇ!? それと……、何て!?! な、なんにせよ自称優等生ない組の級長の癖に罵倒の次元が低すぎないか!?」
「罵倒に次元もクソもあるかばーーか! あーーーほ! はーーーーげ!!」

 どうにかこき下ろす、というか煽ったところ、いっそ潔いほどに幼稚な罵詈雑言が返って来た。その中の許し難い暴言を聞き咎め、三郎は反射的に眉を跳ね上げた。

「誰がハゲだ!? 雷蔵はフッサフサのもっふもふだろうがバ勘右衛門ッッ!!」
「いつ俺が雷蔵て言ったよ鉢屋の地毛に決まってんだろはーげ! そーゆーとこだってんだよこのお花畑のウスラトンカチッッ!!」
「な、なにおぅ〰〰ッ!?」

 ――と、そんな具合で、でえとに誘うはずが低次元な口論へと発展した結果、喧嘩別れの格好で解散した、というのが昨日の顛末である。
 つまり喧嘩の直接的原因は、三郎の悪態だった。それは事実で否定するつもりもない。だが三郎としては、あの場面で悪態をついてしまったのは不可抗力だったと主張したい。

 昨日三郎が導き出した『理由』は事実だ。……平和重視の事なかれ主義者である勘右衛門は決して肯定などしないだろうが、いくつもの状況証拠がそれを裏付けている。だがその事実は、彼に恋慕している三郎にとって痛すぎる現実だった。しかも当人は隠すつもりもないと言いたげな雑な反応を繰り返しておきながら、指摘されても認めようとしない往生際の悪さを披露してのけたのである。徹頭徹尾真剣でしかなかった三郎は猛烈に腹が立ち、つい暴言を吐いてしまったのだ。
 一方で、全面的に自分が悪いということも当然理解していた。三郎は勘右衛門に、己が抱える想いを直接言葉にして伝えたことはないのだ。謎に天然ボケを発動させることのある彼に、三郎が腹を立てている背景――胸に秘めたる想いまでもを察して貰うなど、どだい無理な話である。

 だがそれでも、理不尽だという自覚があってなお、どうしても耐えられなかった。でえとに誘うのに、どれほど勇気が必要だったことか。しかも過去すべての機会において、見事に落胆させられ続けていた。それでも挫けず果敢に挑戦した結果ばっさり断られた挙げ句、それまでの空振りが『三郎と二人では行きたくない』からだったと突きつけられたのだ。恋心を粉々に粉砕されたも同然な三郎の気持ちなど、勘右衛門には分かるまい。
 そもそも彼は三郎になど興味がないのだろう。だから後輩たちからの問いに『仲は普通』などと軽く即答できてしまうし、三郎の素顔も気にならない。気にならないからこそ『雷蔵の顔ばかりで飽きないのか』などという質問も軽率に振ってしまえるのだ。勘右衛門が三郎に対し好意に類する感情を抱いていないのなら、どれほど一緒にいても距離が縮まらないのも不思議はない。どうでもいい人間と二人きりで私用の外出をしたいと思わないのも、ごく当たり前のことだった。
 でえとに誘った結果、脈なし以下と宣言されたようなものだ。報われない恋慕の情が胸で燻り、苦しくて堪らない――。

 そんなわけで三郎は今なお彼に腹を立てていたし、猛烈にヘコんでもいた。故に自分が悪いと分かっていても素直に謝れる気はしておらず、だからこそ顔を合わせるのが気まずかった。
 だが本日は、昨日の書類を片付けてしまわなくてはならず、委員会の仕事を喧嘩して気まずいからなどという幼稚な理由ですっぽかせるはずもない。故に三郎は気配を探り探り、恐る恐る委員会室へとやってきたわけだった。

 さて。真っ先に確認したとおり、室内には三郎以外誰もいない。だが文机に目をやると、然るべき場所に保管してあったはずの書類と筆記具が既に用意されていた。その傍らには、見覚えのない包みも置かれている。
 心当たりのない包みを不思議に思い開けてみると、中には小ぶりな酒饅頭が二つ入っていた。どうやら勘右衛門は一足先にここへ来ていたらしい。今は茶を淹れにでも行っているのだろう。

 三郎は包みから現れた酒饅頭を睥睨した。二つあるということは、一方は三郎の分だろうか。勘右衛門はああ見えて大食漢だ、二つとも自分で食べるつもりなのかもしれない。どちらにせよ、いたく面白くない気分だった。
 三郎の分のつもりなら、勘右衛門は昨日の喧嘩を気にしているということだ。気にしてくれていること自体は素直に嬉しい。だが非のないはずの彼が進んで茶請けを用意するなど、茶を濁す意図があるとしか思えないのだ。……誓って、ギャグなどではない。喧嘩になった背景を知ろうともせず、ただ三郎の機嫌を取ろうという意図が見え見えなのが気に入らなかった。なお二つとも勘右衛門が食べるつもりなら、三郎のことなどどうでもいいと言うことなので一層腹立たしい。

 不満を募らせながら白い二つの小山(こやま)を睨め付けていた三郎は、衝動的にそれらをむんずと掴むと次々と口に放り込んだ。特別味わうこともなく、猛然と咀嚼して腹に収めてしまう。
 元より食うことが好きな勘右衛門だ。全部食べられたらどちらのつもりにせよ、間違いなく怒るだろう。そう考えての行動だった。つまり三郎は謝罪するどころか、筋違いな怒りから彼の厚意(推定)を踏みにじったのである。我ながらなんとも幼い。だが怒る勘右衛門を想像すると、幾許(いくばく)か溜飲が下りた。

 幼稚な仕返しでほんの少し機嫌が回復したその時、三郎は突如眩暈(めまい)のような症状に襲われた。視界が狭まると同時に身体の自由も利かなくなり、為す術なくその場に倒れ込む。
 だが崩れ落ちるように倒れたというのに、衝撃はほとんど感じなかった。――身体の感覚も麻痺しているのだろうか? 初めての事態に不安が湧き上がる。

(誰、か……!! ――ッ!? 声も、出ない……!?)

 助けを呼ぼうとするも、叫びは音にさえならなかった。思いどおりにならない我が身にやや取り乱す。だが一人きりの今、己を守れるのは己だけである。まずは事態を把握せねばと、意識的に冷静になり思案を巡らせた。

 状況からして、饅頭に何かよからぬものが混入されていたとしか思えない。だがこの事態が勘右衛門の企みによるものだとは、現時点では断定できなかった。彼が持参した饅頭だろうと三郎が思い込んだだけで、実際に持ってきたところを見たわけではないのだ。感情に振り回され、学園内だからと疑いもせず出所の分からぬものを口にしてしまった己の迂闊さに臍を噛む。
 ならばせめて今できることをしようと、三郎は自身を救うため引き続き頭を必死に働かせた。

 自覚症状として挙げられるのは、触覚および身体の麻痺と発声障害といったところだろうか。神経毒によるものだとしたら相当まずいが、その割に意識ははっきりとしている。特に痛みを訴えている部位もなく、挙げた点以外に異変は認められない。
 自身の点検を終えた三郎は、続いて周囲を探ることにした。今は何もできないが、不審な人物が潜んでいないか把握しておくことは無駄ではなかろう。そんな判断によるものだった。

 だが周囲に意識を向けてすぐに、三郎は思考停止に陥ることとなった。委員会室に居たはずの自身の頭上に、見覚えのない天井が広がっていたからだ。
 その天井は一枚板でできているらしく、継ぎ目が一つもなく滑らかだ。これほど大きな板など、学園どころかこの十余年の人生において終ぞお目に掛かったことがない。罰当たりが樹齢何百年のご神木を切ったとて、これほど立派な板を切り出せはしないだろう。
 ……冷静なつもりだったがやはり混乱は治ってはいなかったらしく、天井板の大きさについていたく真剣に考察してしまった。その事実にはたと我に返り誰にともなく羞恥を覚えた三郎は、気を逸らすように視線を上にずらした。

 そこでようやく気がついた。その天井が三郎の視線の高さより少し上で唐突に途切れ、その奥――遙か高みに、馴染み深い複数の板を組み合わせた天井らしきものが見えていることに。
 ハッとして、今度は傍らへと視線を移した。視界の端、焦点が合いにくい近さにある肌色の物体は無視して、奥の方へと目を凝らす。すると遠くに、謎の天井を支える角柱があるのが見えた。それは大きさが狂っているような感じはするものの、よく見知った構造をしている。――文机の脚、である。

 理解の範疇を超えた事実にやや呆然とする。そこでふと、見知らぬ周辺環境に気を取られ過ぎていることに思い至った。慌てて周囲の気配に意識を向ける。だが幸いにも近くに生き物、少なくとも人間は一人もいないようだった。
 一応の身の安全を確保したことで、意識的に気持ちを落ち着かせる。それから現時点で把握できている情報を再確認しつつ改めて思案を巡らせた。

 三郎が天井と誤認した一枚板は、文机の脚のような柱に支えられている。その遥か上には見慣れた天井が見えていた。それらから推測できること、それは――にわかに信じ難いが三郎の身体が縮んでしまったらしい、ということだった。

(――ってそんな非現実的な!! そんな毒、聞いたことないぞ!?)

 三郎は自身が冷静に導き出した結論に思わずツッコんだ。だが既に判明していたとおり、声は出ないし腕も動かない。今の三郎には自身にツッコミを入れることすらできないのだ。もう頭を抱えるしかない。もちろん物理的に抱えられはしないので、気分の話である。

 理解し難い、しかしどうにもできない現実に途方に暮れる。そんな折、三郎は不意に微弱な振動を感じた。揺れは徐々に勢いを増し、やがて地響きのような轟音になる。

(じ、地震……なの、か……!? くそっ、こんな時に……!)

 焦る三郎に、天変地異が如き音と振動が容赦なく襲いかかる。身を縮めることさえできない三郎は、心の中で目をぎゅっと閉じ己が無事を祈るしかない。
 だが大きくなる一方だったそれらが、唐突にピタリと治った。突然過ぎる静寂の訪れにすぐに警戒を解く気にはなれず、三郎は息を潜めたまま周囲の様子を探る。
 すると今度は、自身が宙に浮くかのような感覚を覚えた。慣れない浮遊感に心許なさを感じて身を固くし(たい気持ちで)、しかし状況把握のために恐る恐る閉じていた視覚を開く。
 そこで目にしたものに、三郎は驚愕した。

(――か、勘右衛門……!?)

 開いた口が塞がらない、というのはこういうことを言うのだろう。もちろん、現在三郎は物理的に口を開けられはしないのだが。

 目の前にあったのは、見慣れた丸顔――勘右衛門の顔だった。ただし三郎の目には、そのすべてが距離に比してずっと大きく映っている。
 仔細は不明ながら今の三郎は身体が縮んでしまっているのだ。同じような体格だった同輩が巨人と化し、その動作が驚異に感じられるのもまた当然だった。ようやく地震の正体に思い至った三郎は、脳みそまで縮んだかと己が察しの悪さを恥じる。
 そんな三郎の内心を知る由もない勘右衛門は、いたく訝しげな顔でじっとこちらを見つめてくる。三郎は異常な近さから注がれる不躾な視線と昨日から抱えてきた気まずさに、彼の丸い双眸から視線を逸らした。

「――……雷蔵の、ぬいぐるみ……?」

 暫しの沈黙の後、三郎の耳に不審げなつぶやきが届いた。

(ら、……え?)

 平常心を取り戻すべく(もちろん精神的に)九字の印を切っていた三郎は、理解の及ばぬ発言を耳にした気がして思わず彼へと視線を戻しかけた。だがその瞬間何故だろうか、先刻は無視した肌色の物体のことが脳裏をよぎった。
 改めて目をやると、それは未だそこにあった。やはり焦点が合いにくいのだが、丸っこく表面がふわふわとした物体であることが分かる。よく見るとその手前には黒や瑠璃色の部分も見受けられた。勘右衛門に持ち上げられてなお同じ位置関係にある点から、どうやらこの謎の物体は自身の側面から生えているらしい。

(……ぬ、い……、ぐるみ……?)

 先ほどは理解できなかった勘右衛門の言葉が、周回遅れで脳に染み込んでくる。つまり己はただ身体が縮んだのでも赤子になったのでもなく、ぬいぐるみになってしまっているというのだ。

 何をどうしたらそうなるのか。一層理解が追いつかない。だが実際にそうなっている以上、そこはもう呑み込むしかないのだろう。
 三郎は持ち前の切り替えの速さを発揮し、理解の範疇を超え過ぎている現実をどうにか呑み込もうとした。

 そんな折、突然三郎の視界がぐるりと回転した。立て続けに景色が上下左右に忙しなく動き、あまりの目まぐるしさに実際できるのかは知らないが吐き気を催しそうになる。
 異変の原因は言わずもがな、己を持ち上げている勘右衛門だ。彼が三郎の身体をくるくると回し、様々な角度からまじまじと観察し始めたのである。不躾な視線に晒され、三郎は顔に血が集まるような心地になった。今の三郎には血は通ってはいなさそうなので、そんな気持ちになったというだけだが。

(――ッやめろ、ひっくり返すな〰〰!)

 どうにか堪えていた三郎だったが、逆さまにされ下半身側から覗き込むようにじっと見つめられるに至り、羞恥のあまりに抗議の声をあげた。だが悲鳴は三郎の心中に虚しくこだましただけで、当然勘右衛門を押し留めるには至らない。結果三郎はされるがまま、無惨にも読んで字の如く彼の手のひらの上でころころ転がされたりもにもに揉まれたりした。
 大変屈辱的な体験ではあったが、それで現在の自分が綿がたっぷり詰まったふんわり仕様になっているらしいことは理解できた。どおりで身体の自由を失った際、衝撃や痛みを感じなかったわけである。どの程度の高さから落ちたか定かではないが、不幸中の幸いと言っても良いのかもしれない。……なおこれは現実を前向きに捉えようという努力であり、逃避などでは断じてない。

「いくらなんでも、同じ歳の男のぬいぐるみなんざ普通作るか……?」

 屈辱的体験を記憶から抹消しようと躍起になっている三郎を尻目に、一通り検分を終えたらしい加害者が手を止めて独りごちた。改めて三郎の顔をじっと見つめてくる勘右衛門の眉間には、未だ不審げなしわが寄ったままだ。
 もちろん作ってなどいないし作る予定もない三郎は、尾を引く羞恥に内心ぜえはあしつつ彼の訝しげな視線をただ受け止めた。

「――……気持ち悪」

(!? 濡れ衣だ!!!!)

 暫しの沈黙を経て、勘右衛門が吐き捨てるように呟く。心の底から不愉快そうなその声音に、三郎は血の気が引く思いで叫んだ。なお今の三郎には血が通っては(以下略)。非常に都合の悪い状況に歯噛みする。
 どうやら勘右衛門は、ぬいぐるみになってしまった三郎を雷蔵と誤認したようである。それはまだいい、むしろ変姿の観点では喜ばしいことですらある。だが寸分も疑わず三郎が作ったのだと決めつけられたのは大変遺憾だった。永く姿を借り続けている唯一無二の相棒を一等大事に思っているのは事実だが、彼を(かたど)ったぬいぐるみを作り持ち歩こうと思ったことなどただの一度もない。だというのにそうと決めつけられ、それ故に今でさえ低い好感度がさらに下がるなど看過できようものか。

 しかし全身全霊で抗議しようとも、三郎の声は勘右衛門には届かない。しかも彼の興味は既に他へと移ったようだった。ふと視線を文机に向けた彼は、その丸い双眸を瞬かせた。

「あれ? 饅頭、――ない。……あんにゃろ、全部食ったな……?」

 不満も露わに文句を言いながら身を屈め、ずっと持っていたらしい盆を饅頭の入っていた包みの横に置く。そこでは見慣れた湯呑みが二つ、淡く湯気を立てていた。やはり勘右衛門は共に食べるつもりで饅頭を用意していたようだ。気にかけて貰えていたことを確信し、三郎は冷えた肝が僅かばかりか温まるような心地を覚えた。恐らく今は肝も無いのだが。

 勘右衛門は空いている手で自分の湯呑みを持ち、やや荒い足運びでいつもの席へと移動した。机上の邪魔にならなそうな辺りに湯呑みと並べて三郎を置くと、自らに割り当てられた書類を引き寄せて席に着く。
 だが彼は暫くの間、筆に手を伸ばしもせずに眼前の紙束を億劫そうな半眼でただ眺めていた。やがて行儀悪く片肘をつき一枚ずつぺろぺろとめくり始める。その傍ら、時折湯呑みを手に取り盛大な音を立てて茶を啜った。
 そんな勘右衛門を眺めながら、三郎は改めて思案する。

 これまでの言動を見るに、勘右衛門が饅頭を持参したことに間違いはなさそうだ。だがぬいぐるみ化の作用には心当たりがないようである。ならば一層、どうしてこうなってしまったというのか。最大かつ肝心の謎は依然謎のままだ。

「……人の分までおやつ食っといて、どこほっつき歩いてやがんだ鉢屋は」

 やる気なさげに書類を眺めていた勘右衛門がぼそりと文句を垂れる。眼前に意識を戻すと、彼はやや大袈裟な素振りで湯呑みを煽っていた。三郎は一定の間隔で上下に動く彼の喉仏をぼんやりと眺める。
 やがて全て飲み干したらしい彼がタァンと小気味いい音を立てて湯呑みを置いた。反動で三郎のふわふわボディが三分(一センチ)ほど宙に浮く。再び着地したところ視界がやや傾いでいたが、今の三郎にはそれを自力で正すことさえできない。故に不恰好な体勢のまま、素早く腰を上げた勘右衛門を見上げる。

(ずっとここにいるんだがなあ~~)

 聞こえないと知りながら、情けない気持ちで彼のぼやきに対する反論を嘆く。もちろん届きはせず、勘右衛門の視線は既に戸の方を向いていた。再びこの場に一人残されるのは些か不安なのだが、ぬいぐるみにはどうすることもできない。故に足早に戸口へ向かう背中をただ見送った。
 だが何歩も行かない内に、勘右衛門が突然ピタリと足を止めた。首だけで振り返り、未だ斜めになったままの三郎をじっと見つめてくる。
 不思議に思っていると、身を翻し戻って来た彼につまみ上げられた。どういう意図かは分からないが、どうやら三郎も連れて行ってくれるらしい。一人取り残されずに済んだことに安堵を覚えると同時に、つまみ上げられた際の存外に優しい手つきに淡くときめきを覚える。

 だがその甘やかな体験は、噛み締める暇を与えられることなく上書きされることとなった。勘右衛門が三郎をひょいと懐に入れ、収まりを確かめるように衣の上からそっと押さえたのである。期せずして想い人の懐に収められその身に柔く押し付けられる形になった三郎は、頭が真っ白になった。
 己を包み込む勘右衛門の匂いと肩衣越しにじんわり伝わってくる温もりに、僅かな後ろめたさと共に猛烈な興奮が湧き上がってくる。今の三郎が生身であったなら、心の臓が胸郭を突き破って転がり出てしまいそうなほど激しく脈打っていただろう。三郎は、今己に詰まっているのがふわふわの綿だけでよかったと心の底から思った。

 ぬいぐるみの心中など知るわけもない勘右衛門は、今度こそ委員会室を後にした。伝わってくる振動に我に返った三郎は、恋心に踊らされている場合ではないと現実に立ち戻る。とは言っても何もできないため、袷の隙間から彼の動向をそっと眺めるだけだったが。

 ろ組の教室に長屋の部屋、職員室に学園長先生の庵――勘右衛門は三郎の居そうな場所を順に回っているようだった。次いで図書室に足を運んだのは、三郎が雷蔵の委員会活動についてきていることが多いからだろう。だが本日相棒は当番ではないため、三郎はもちろん雷蔵もそこにはいない。何度目かの空振りに小さくため息をつく勘右衛門を、探されている身でありながらただ見ているのは心苦しかった。
 続いて勘右衛門は屋外に足を向けた。三郎がよく昼寝している木陰や思案に耽るに最適と思っている池のほとり、人間観察目的で登る長屋の屋根上に自主鍛錬で使っている的場――……。驚くべきことに、彼は三郎の特別公言したこともないようなささやかな、しかし確かに気に入っている場所をしらみ潰しにするように巡っていった。勘右衛門は三郎になど興味がないのだと思っていたのだが、実際は思っていた以上によく知っていたらしい。目撃した事実に、淡い羞恥と大いなる喜びを覚える。そして表情を動かせないのを幸いと、思う存分にまにました。

「あ、雷蔵!」

 三郎のにまにまがようやく治ってきた頃、不意に勘右衛門が大きな声を出した。呼ばわれた名と、直後に今までにない振動に見舞われたことから、彼が偶然行き合った相棒に駆け寄ったのだと察する。確か雷蔵は本日印字打ちの自主練をすると言っていた。現在地との位置関係から推測するに、的場で目標に(つぶて)を正確に当てる訓練でもしていたのだろう。

「やあ、勘右衛門。どうかしたのかい?」

 揺れが止むのとほぼ同時に、耳に馴染んだ雷蔵の声が聞こえた。隙間から垣間見た相棒は変わらず穏やかな空気を纏っている。だが三郎の目にはやはり普段よりも大男に見えた。

「鉢屋探してるんだけど、どこにいるか知らない?」
「三郎? いや、見てないな」
(そりゃそうだろ、ずっとお前の懐にいるんだから)

 想像に違わぬ二人の問答に、聞こえないと分かりつつ茶々を入れる。無論音になることはなく、彼らの会話が妨げられることもない。

「三郎とは掃除当番の後、教室で別れたきりだよ。完了報告した足で委員会行くって……行ってないの?」
「それがさあ! 俺が茶ァ淹れに行ってる間に一回来たみたいなんだけど、鉢屋のやつ、俺の分までおやつ食うだけ食って姿くらましてやがんの。ひっどいよなあ!?」

 三郎の記憶と違わぬ経緯を説明した雷蔵に、勘右衛門がやや食い気味に文句をぶちまけた。躊躇なく不満を訴え湯気をぽこぽこ発して怒っている。そんな彼が、三郎にはいたく新鮮に映った。

 勘右衛門は忍たまの中でも指折りの穏やかな気性の持ち主だ。怒って当然と言える場面でも呆れるか困るかのいずれかで済ませてしまうことが多く、それで済まない場合でも直接本人に文句を言うか他で少々不満を垂れる程度だ。感情の起伏が激しくなく、常に理性的で落ち着いている。そういう印象だった。
 だから勘右衛門にも、他者への怒りを感情的にぶちまけることがあるのかと驚いた。少なくとも三郎には、彼から第三者に対する怒りを訴えられた経験はない。
 他者への不満などというものは、誰彼構わず打ち明けるようなものではない。愚痴を許容してくれ軽々に吹聴することもないと信じられる者に対してでなければできない、甘えた行為である。つまり勘右衛門がそんな態度を取っているのは、相手が雷蔵だからなのだろう。三郎は相棒の人徳の高さに感心すると同時に淡く嫉妬心を抱いた。――尤も、それほどに穏やかな男を大喝するほど怒らせた不届者で、今ぶちまけられている不満の対象である第三者は三郎(じぶん)なわけだが。

「三郎が、勘右衛門のおやつを? へえ、なんでまた」

 事情を聞いた雷蔵が驚いたように眉を上げオウム返しに問う。その反応に三郎は気恥ずかしさを覚えた。どうやら無二の相棒たる彼は、特に話したことはなかったはずの勘右衛門への己が感情を察していたらしい。故にその行動を疑問に思ったのだろう――三郎が別段甘味好きでないことも当然ご存知なのだから。

「さあ。……昨日ちょっと喧嘩みたいな感じになっちゃったから、その仕返しかもな」

 三郎が相棒の理解度に感動していると、勘右衛門が投げやり気味に首をすくめて答えた。後から決まり悪そうに唇を尖らせ思い当たる節にも言及する。それを聞いた三郎は頭を抱えたくなった。
 どうやら勘右衛門は三郎のことを、幼い意趣返しをするような人間だと認識しているらしい。だが三郎が饅頭を食ったのは喧嘩の腹いせなどでは断じてなく、彼の認識は誤っている。……のだが、対象は違えど報復には変わりなく幼い行動であった自覚もしていたため、全面的に否定するのは憚られた。故になんとも言い難い羞恥に苛まれ、頭を抱えるより他どうしようもなくなってしまったのである。今ばかりは、自身が言動できなくなっていることに感謝せざるを得なかった。

 当事者不在の前提でなされる会話は、語られる当人への忖度がないため良くも悪くも嘘がない。故に勘右衛門が口にする自身の話は、彼に想い寄せる三郎には刺激が強すぎるものばかりだ。しかも不可抗力とはいえ盗み聞きしているような状況だ。後ろめたさにじわじわと侵されるような心地がした。
 ひたすら居心地の悪いこの状況からどうにかして逃れたいが、今の三郎には物理的に逃げ出すこともできなければ、懐にいることを彼に知らせる術もない。故に自身の幼稚な行動に関する話題は遠慮も容赦もなく継続されるのだった。

「勘右衛門の分まで食べるなんてよっぽどだな。そんなにひどい喧嘩だったの?」
「まさか! しょーもないことだったよ。なのに根に持って他人のおやつを勝手に食うなんて、ガキかってんだよな!」
(しょーもないってなんだしょーもないって! 私にとっては一大事だったんだが!?)

 気まずさから気持ち的に縮こまっていた三郎はしかし、勘右衛門の言に反射的に噛みついた。雷蔵は伝え聞いた行動から心情を高精度で読み取ってくれたというのに、肝心の勘右衛門ときたらこの程度の認識なのである。三郎は改めてヘコんだ。

 その時、三郎はふと自身に柔く圧が掛かったのを知覚した。勘右衛門が衣の上から軽く押さえたのだろう。このタイミングで懐の存在を意識したということは、ぬいぐるみになった己を雷蔵の前に出すか否か考えている可能性が高い。
 だが推測された彼の行動の先を想像して、三郎は不安に襲われた。

 ぬいぐるみになってしまったのは本当に意味不明だが、雷蔵と見紛う姿なのは単純にぬいぐるみ化した瞬間の自分が普段どおり彼を模していたからに過ぎない。だがこのぬいぐるみを見て誰が模倣側(さぶろう)だと思うだろうか。勘右衛門がそうだったように雷蔵(オリジナル)だと思うだろうし、当人もその例に漏れはしまい。
 正直なところ、自分の(に見えるだろう)ぬいぐるみを目の当たりにした雷蔵がどう思うかは予想もつかない。だが好意的な反応は望めないだろう。それ自体も喜ばしくないが、そんな彼の反応を見た勘右衛門に更なる誤解が生じるのはもっと頂けない。三郎の好感度が地を這う予感しかせず、どう転んでも状況が悪くなるだろうことは想像に難くなかった。

 それ以前に、三郎はまだ勘右衛門の懐に収まっていたいと思っていた。
 この短い間でも、これまで三郎が知らなかった勘右衛門の一面を知ることができた。それは存在を知られることなく彼の言動を見ていられたからこそ、成し得たことだろう。三郎が見てきた理性的過ぎるほど穏やかな彼は恐らく、よそゆきの『作った顔』なのだ。
 壁を作られている三郎には見ることが叶わない自然体の勘右衛門を、まだ見ていたい――……。普段から隙のない彼に、それ故に長いことただ恋焦がれてきた三郎がそう思うのはごく自然なことだった。

 故に三郎は、彼の懐の中で全身全霊でイヤイヤをした。だがやはり少しも動くことはできず、当然勘右衛門も気が付かない。……三郎の意思が実際に動作に反映されていたら、怪奇現象として忌避されていた可能性が高いため、動けなかったのは幸いだったと思われるが。勝手に蠢くぬいぐるみなど、呪物か化生の類としか思えない。

「文化祭で売られてた体育委員会のパペットって、すごく精巧だったよな」

 三郎が精神的イヤイヤに全身全霊を捧げていると、勘右衛門が突然雑談めいた話を切り出した。普段と変わらぬ穏やかなトーンで語られるその話題は、しかしあまりにも脈絡がなく唐突だ。

「うん? ああ、そうだね。よくできてた」

 三郎と同様に面食らったのだろう、雷蔵は困惑したような声を出した。だが勘右衛門以上に穏やかで真面目な彼は、戸惑いながらも律儀に応じる。

「雷蔵も欲しい? 雷蔵パペット」

 だが勘右衛門は続けてこれまた唐突な質問を、ずいっと距離を詰めつつ投げかけた。謎に圧をかけられた形の雷蔵は、困りながらも思案するように視線を泳がせる。

「ええ? う、うーん………………いやでも、欲しくはないかな……? すぐダメにするかなくしそうだし……」
「……そっか」

 少々思い悩んだが、彼にしては比較的早い段階で答えが出た。否定的な返答をした雷蔵に、しかし勘右衛門は賛同も批判もせずただ相槌を打つ。
 その後間を置かずに、勘右衛門は何かを思い出したように顔を上げた。

「――おっと、いかんいかん。雑談してるバヤイじゃあなかったんだった」
「ああ、委員会の仕事まだなんだよね。三郎見かけたら勘右衛門が探してたって伝えるよ」

 すまなそうに眉を下げ、自ら始めた謎な話題を唐突に終わらせた。随分勝手な勘右衛門の言に、しかし雷蔵は文句も疑問も口にせずただうなずく。当然のように添えられた重すぎない助力の申し出に勘右衛門は一瞬目を丸くして、しかし嬉しげに表情をほころばせた。

「助かるよ。もし会ったら委員会室に戻るよう伝えてくれるか? 俺、も少し探したら戻るからさ」

 重ねて伝言の依頼をした勘右衛門は、簡単な挨拶を交わして雷蔵と別れた。長屋の方へ向かう相棒の背中を、その場に佇む勘右衛門の懐から共に見送る。
 結局、勘右衛門は懐にいる三郎を雷蔵に見せるどころか話題にも出さなかった。とりあえず難を逃れられたことに、三郎は心の底から安堵する。
 その時、不意に衣の上から今一度、己が身を柔く押さえられた。

「……雷蔵に嫌悪の目ぇ向けられたら、アイツ死んじゃいそうだもんなァ」

 ぼそりと、独り言めいた呟きが落ちてくる。薄らと呆れを帯びたそれに、三郎は(瞬きせずに)瞬いた。
 言及された『死んじゃいそう』な『アイツ』が誰かなど、考えずとも分かる。つまり勘右衛門は、雷蔵が自身のぬいぐるみの存在を認識していなさそうだと見て、三郎にとって最悪の展開を想像し話題に出すのを辞めたのだ。

(わ、私のためか~~!!)

 三郎は歓喜の叫びをあげた。今の顔が布と糸と綿とで構成されていなかったら、雷蔵にも嫌がられるほどに緩み切った表情をしていたことだろう。
 元より雷蔵のぬいぐるみなどではないため完全に濡れ衣ではあるわけだが、勘右衛門が三郎を慮って行動を決めたという事実がただ嬉しかった。もちろん彼の計らいで誤解が誤解を招く憂き目に遭わずに済み、今暫く彼と行動を共にできることも喜ばしい。

(こいつのこういう視野の広さとか、機転が利くとことかも……好き、なんだよなあ……)

 三郎は喜びを噛み締めつつ、しみじみと勘右衛門に惚れ直した。

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