■読む前に注意点■
この作品には、名無しのモブ級友(五年生)が複数人出てきます。
それでも大丈夫だよ!って方はどうぞ↓↓
どうしてだろう。
こちらを見ようともせず吐き捨てるように口にされた言葉が、その不愉快そうな顔が、やけに眩しく映ったのは。
気がつけば無意識に手が伸びて、彼の袖の端を掴んでいた。胸の内を占める焦りに似た衝動に、突き動かされて。
床に落とされていた彼の目が、袖を掴んだ手から腕、胸を辿り、ようやくこちらへ向けられる。驚きの浮かぶ黒い瞳とぱちりと視線がぶつかった瞬間、何故か胸が詰まった。袖を掴んだままの指先は震え、体内から一定の速度で響くはずの音がより速く、大きくなっていく。
何故かとても興奮していた、あの瞬間。
あの時の映像が、感覚が、繰り返し脳裡で再生され続けている。無意識の内に何度も思い返してしまっている。ひどく落ち着かない気持ちになるのに、それが何故だか心地よくも感じられ、何度も、何度も、なぞってしまう。
この胸を占める、如何ともしがたい焦燥は一体なんだというのだろう。
これが何なのか、どうすればいいのか、どうしたいのか。
答えは、未だに見つからない。
一、
梅雨明けの気配を感じさせる、蒸し暑い昼下がり。図書室は、湿気と暑さのせいだろうか、古い紙の匂いとかび臭さが常よりも強く感じられる。快適とは言いがたいこの部屋に、それでも三郎が留まっているのは、相棒が図書委員の当番であるからに他ならない。
放課後の図書室には皆、様々な目的のために各々の都合で訪れる。故に来室人数にはムラがあり、忙しさも日や時間帯でまちまちだ。利用者が多く立て込んでいる時は、もちろん三郎も手伝いに加わる。しかし現在は人の出入りがまったくなく、これといってすることがない。
お目当ての相棒はといえば、受付に座り手仕事をしている。唇の動きを読むに、傍らの怪士丸に書物の修繕方法を教えているらしい。
部外者である三郎が寄って行ったら、後輩の気を散らせてしまうだろう。そう考えた三郎は、空いた机に頬杖をついて手慰みに書物の頁を繰りつつ遠巻きに二人を眺めた。
不破雷蔵。後輩の覚束ない作業を微笑み見守っている彼は、三郎の同級生だ。そして唯一無二の得難い存在である。
温和な性格をはじめ、彼の魅力は述べきれないほどあるが、特筆すべきは尋常でない懐の深さである。なんせ自身の姿を三郎に日常的に写し取られることを、抵抗なく受け入れてしまっているのだから。
姿を借りられるということは、その姿が衆目にさらされる機会が増すということだ。単純計算でも倍、三郎の振る舞いによってはそれ以上にもなり得る。己の与り知らぬいざこざに巻き込まれる可能性も、ないことではない。
二人で歩けば自然と注目を集めてしまう点も善し悪しだ。それ以前に、自らと隅々まで同じ姿かたちの人間が日常的に目の前に居るのは、普通に考えれば薄気味悪いものである。
姿を借りる許諾を得たのは出逢ったばかりの頃で、三郎も雷蔵もまだ齢十ほどの子どもだった。故に当時は深く考えていなかっただけだろうとは思う。
しかし四年の歳月が行き過ぎてなお、雷蔵は日常的に姿を借りられ続けること自体を厭うたことはない。雷蔵に成りすまして悪戯をするなどしたら当然咎められるが、許諾を撤回されたことは一度としてないのである。
『不破雷蔵は忍びに向かない落ちこぼれだから、危険性を認識していないのだ』
そんな声を耳にしたことがある。だがそれは雷蔵を侮った見解だ。
確かに雷蔵は『忍者に向いていない』という評を、どこぞの曲者から頂戴したことがある。それは彼に、忍者の三病の一つである思案を過ごすきらいがあるためだ。
だが雷蔵が思案を過ごすのは、その膨大な知識量に対して判断を下すための経験が不足しているからに過ぎない。そもそも思案を過ごすことが危ういというだけで、思慮深いことは短所ではない。これから先経験を積んでいけば、彼は優秀な忍びになる。三郎はそう確信している。
なればこそ、思慮深い彼が現在に至ってなお姿を写される危険性を理解していないはずはない。理解した上で受け容れてくれているのだ。直接尋ねるのは野暮というもので本人に訊いたことこそないが、疑いようがない。許容するその器は尋常ではない大きさといえよう。 懐の深さと思慮深さを兼ね備えた、温和で優しい努力家。そんな稀有な存在に入学早々出逢えたこと、その相棒の立場を得られたことは実に幸運なことだったと三郎は思う。
三郎が常に他人の姿を借りているのは、変姿の術を得意とする忍びの家系の人間だから、というのが最たる理由である。だが三郎自身にとってより重要だったのは、他人の姿を借りることで〈鉢屋三郎〉という人間自体を、この世から消してしまうことだった。
三郎はずっと自分が嫌いだった。
幼い頃からどこへ行き誰が相手になっても、上手くやれた試しがなかったからだ。それは素顔を隠している薄気味悪さや、歳に見合わぬ鋭さと思慮深さを持ち合わせていたこと、生まれ持った才覚が嫉妬や羨望の的となってしまっていたことなど、様々な要因による。
人の輪から意図せず外れてしまう度、三郎は原因を特定しては割り切ったり反省したりと合理的に対処してきた。
けれど、いつだって寂しかった。
そんな自分を初めて丸ごと受け容れてくれたのが、雷蔵だった。柔らかな光に満ちた湖水のほとりを思わせる、温かく優しい居心地のいい場所。彼の周りには、自然と人が集まる。これが愛される人間なのだと知って、なれるものなら雷蔵になりたいと強く願った。
その願いは、己が生家の習わしによく馴染むものだった。故に三郎は姿を借りながら雷蔵という人のひととなりを何度もなぞり倣った。そうしている内に、周りから人がいなくなってしまうこと、寂しさを感じることはなくなっていった。
こうして雷蔵はその性質と存在の二側面において、三郎を長い孤独から救ってくれたのである。だから三郎は雷蔵を心の底から敬愛し、彼の援けになることは何でもしてやりたいと思うのだ。
「人も少ないし、今日はお終いにしよう」
穏やかな雷蔵の声が、物思いに沈んでいた三郎の意識を現実に引き戻した。知らぬ間に伏せていた顔を上げると、既に片付けに取り掛かっているらしい雷蔵の姿がある。
人が少ない、もとい三郎を含めた三名以外誰もいないとはいえ、定刻まで後一刻はあるはずだ。
不思議に思って様子を窺っていると、彼の傍らにいる後輩が眉尻を下げ不安そうにしているのに目が留まった。いつも以上に顔色が悪く、わずかに震えてもいるようだ。
雷蔵が早めに切り上げた理由はそこにあった。なるほど、耳を澄ませば雷神様の怒声が遠く聞こえている。
「怪士丸を長屋まで送って来るよ」
「ああ、留守番は任せてくれ」
目の前で一度立ち止まった雷蔵に笑顔で請け合い胸を叩く。それに雷蔵はいつものように柔らかな笑みを返すと、自身にしがみつく怪士丸を促しゆっくりと図書室を出て行った。
相棒の背が引き戸の向こうへ消えてしまってから、三郎は任された務めを果たすべく受付へと移動した。いつも雷蔵がそうしているように背筋を正し、膝を揃えて正座する。
机上に目を落とすと一冊の本が目に留まった。丁寧に修繕されたその本は、先刻雷蔵が手本として修補していたものだ。
雷蔵の敬愛する無口で繊細な先輩の影響だろうか、本に関することにおいては彼の大雑把な性格は鳴りを潜める。遠巻きに眺めていた穏やかな指導風景を思い返し、三郎は目元を和ませてその本の表紙を優しく撫でた。
その時、三郎は図書室へと近づいて来る気配があることに気がついた。もちろん、雷蔵ではない。この気配は、――
「やあ勘右衛門、いらっしゃい。勧めた本はどうだった?」
戸が開いて思い浮かべたとおりの丸顔が視界に入るなり、三郎は雷蔵の柔らかな声音を紡いだ。
遠雷が聞こえる中図書室へやって来たのは、尾浜勘右衛門だった。うどんのような不思議な髪の持ち主で、五年い組の学級委員長を務めている。つまり三郎にとっては、委員会の同輩でもある男だ。
三郎と勘右衛門との仲は、特段良くも悪くもない。強いて言うなら気に入らない方に入るか、という程度だ。というのも、どうやら勘右衛門は雷蔵を特別好いているらしいのだ。
相棒の周りをうろちょろしている彼の姿は当然三郎の視界にも頻繁に入ってくる。一方勘右衛門は、いつも雷蔵の傍らにいる三郎を疎ましがっているようで、邪険な扱いを受けることもしばしばだ。
三郎個人として彼に思うところは特別ないのだが、邪険にされてなお好意的に接することができるほど、人間できてはいない。そういった理由で、三郎にとっての尾浜勘右衛門は『同級生の一人で委員会の同輩のちょくちょく突っかかってくる面倒なやつ』くらいの存在だった。
さて。人間という生き物は往々にして、思い込みや先入観に支配されているものだ。
現在雷蔵は不在にしており、図書室にいるのは自分だけである。〈図書室の受付〉と〈雷蔵の顔〉の組み合わせは、室内にただ一人ということもあって、割合強い先入観として作用するだろう。
そう踏んで、三郎は日頃の鬱憤を晴らすべく、勘右衛門を騙しからかってやろうと思ったのだ。
ところが。その目論見は大いに外れる結果となった。
目が合った瞬間、勘右衛門は心底不快そうに顔を歪めた。
「……雷蔵になりすますのはやめろ、反吐が出る」
「ええ? ひどいな。本人なんだけど」
低く唸った勘右衛門に、まず軽く騙せるものと思っていた三郎は大変驚いた。だがにわかに信じられず、引き続き雷蔵になりすまし苦笑してみせる。我ながら瓜二つの名演技だ。
しかし勘右衛門は一切迷うこともなく、今度は顔中がしわしわになるくらい顔をしかめた。筆舌に尽くしがたいほど、不愉快そうである。
「それ以上続けたら締めあげて外に捨てるからな」
物騒なことを一息に言い捨てながら、後ろ手に戸を閉めて室内へ入って来る。手には返却するつもりなのだろう一冊の本があったが、彼は受付に寄っては来ずに奥の本棚へと姿を消した。
勘右衛門の姿が見えなくなってから、三郎は今までの経緯を反芻し呆然とした。
いつも雷蔵と一緒にいるのだ、勘右衛門と雷蔵のやり取りもある程度把握できている。変姿を得意とする自分が本気で装えば、雷蔵ではないと見破られることなどまずない。そう思ったのに、勘右衛門にはあっさりと看破されてしまった。
どうしてだろう。疑問ばかりが脳内を巡る。
だが不思議なことだが、三郎は看破されたことに驚きこそすれ落胆してはいなかった。何故か分からないが気が急いて落ち着かない。一定の速度でトクトクと鳴る胸の音が思考の邪魔をする。そんな己の状況にも理解が及ばず、茫然としてただその場に座っていた。
暫しして、本の森から抜け出た勘右衛門が、こちらへ歩み寄って来た。手中の本は二冊に増えている。そのまま三郎の斜向かいの辺りに、本を机上に置いてあぐらをかいた。
「雷蔵は?」
「怪士丸を部屋へ送り届けに」
腰を落ち着けると同時に放たれた、素っ気ない問い。それに簡潔に答えると、勘右衛門は天を仰ぐような仕草をしつつああ、と得心したような声を漏らした。今なお微かに聞こえている遠雷に気がついたようだ。
雷蔵の行方に納得がいったらしい勘右衛門は、手持ち無沙汰そうにぱらぱらと本の頁を繰り始めた。こちらには少しの関心もない様子で一瞥すらしない。
「どうして私だと分かった?」
本を眺めている勘右衛門に、三郎は遠慮なく問いかけた。見るからに内容を読んではいないのだ、別に構わないだろうと判断し、逸る気持ちに急かされるままに尋ねたのだ。
対して勘右衛門は目は本に落としたまま、再び不愉快そうに眉間にしわを寄せた。
「どうして、って? 間違いようがないだろ。姿だけ似せても雷蔵とは全然違う、まがい物だ。そうやって雷蔵に化けては迷惑をかけるお前なんか大嫌いだ」
やはり視線の一つも寄こさずに口にされる、当然と言わんばかりの返答。
それを耳にした途端、三郎は意識に引っかかるほど明確に己の心臓が音を立てたのを知覚した。
――雷蔵とは全然違う、まがい物。
確かに事実ではあるがひどい言いようであるし、大嫌いだとまで言われている。だというのに胸に満ちるのは、面白い悪戯を思いついた時のわくわく感に似た感情だった。
振り返ってみれば確かに勘右衛門は、今まで一度も三郎と雷蔵を間違えたことがなかったように思う。嬉しげに輝く瞳はいつだって真っすぐに雷蔵を見つめていて、こちらを向く時にはその輝きは失われている。むしろ不愉快そうな表情を浮かべていることの方が多かった。
――雷蔵とは全然違う、まがい物。
投げつけられた暴言を反芻するほどに、何故か鼓動が加速して居てもたってもいられなくなる。
「お前が欲しい」
気が付けば、頁をつまんだ勘右衛門の袖の裾を掴んでそう口にしていた。言葉を放ってしまってから、己の言動に自分で驚く。どうしてこんな行動に出たのか、己のことだというのにまったく分からない。
しかしこれほどの衝動を覚えたのは初めてのことだ。自覚はないが、己が心の底から望んでいることなのかもしれないと不思議なことを思った。撤回する気も微塵にも起きてこず、それが正解だという納得感だけが胸に残っている。
対して、ようやく顔を上げた勘右衛門は、驚嘆した表情でこちらを見つめてくる。じっと見つめ返すと、皿のように丸かった目は見る間に糸のように細くなっていった。眉間にも深々とした峡谷が形成されつつある。結果最終的に、嫌悪感と不審感を露骨に漂わせた表情が完成した。
「……はァ? それってどういう文脈なわけ? さっぱり分からん。なんだよ欲しいって、男色的な話? なんにせよお断りだ。俺、お前のこと嫌いだって言ってんだろ」
流れるように疑問をあげつらった挙げ句、迷う余地もなく断られた。しかも彼は不快そうな顔で身を引いて、三郎から距離を取ろうとしている。
「勘右衛門の時間を私にくれ、二週に数刻でいい」
慌てた三郎は、袖を掴んでいる手に力を込めて勘右衛門をなんとか引き留めた。間を置かずに誤解を生まぬよう、言葉を選び直して端的に依頼し直す。 しかしそれでも、勘右衛門の顔から負の感情は消えない。それどころか面倒臭そうな空気が加わると同時に、一層胡乱げな雰囲気を醸し出し始めた。
「いやなんでだよ。なにすんの?」
「共に居てくれればそれでいい。その代わり毎度甘味か何か食わせてやるから!」
「えっ」
問いに答えるついでに思いつくに任せ見返りを添えると、勘右衛門はあからさまに釣られた。まん丸の瞳がよく磨かれた黒曜石のようにぴかぴかと光っている。緩んだ口の端からよだれが垂れて来そうだ。
こんなにも明るい顔の彼を正面から見るのは初めてである気がした。いつもは雷蔵に向けられている輝くような表情に、正対し慣れていない三郎はやや怯んだ。
五年い組の学級委員長ともあろう者が、たった三文字の単語にこうも簡単に釣られるとは。
そのちょろさはいかがなものかと思いはしたが、このまま釣り上げたい三郎は口にしない。日頃邪険にされている分、明るい顔を向けられていることに悪い気もしなかった。
「加えて、勘右衛門が雷蔵と共にいられる時間を担保しよう。その間私は絶対に邪魔をしない……どうだ?」
代わりに畳みかけるようにさらなる手札を追加で提示してみた。雷蔵といつも共にいて行動を把握している自分だからこそ提供できる特典だろうと思われた。
何が何でも彼を得なければならない――そんな謎の衝動に突き動かされていた。
しかし勘右衛門はなかなか返事をしてくれない。これ以上打てる手がない三郎には、もう彼の顔色を窺いながら返答を待つ以外どうしようもない。
勘右衛門は暫く複雑そうな表情をしていたが、目が合った途端小さく舌打ちした。そのまま天を仰いで溜め息をつく。
「わぁーったよ! 乗ってやるよ、その話!」
ようやく返ってきたのは、三郎の希望どおりの答えだった。やや渋々といった風情ではあるが、つい先刻大嫌いだと言われた点を踏まえても十分だ。やはり雷蔵の魅力は絶大である。
無事希望が通った三郎は、雷蔵への尊敬の念を強めながら安堵の息をついた。
「よし、取り引き成立だな。じゃあ早速だが、明後日の午後の都合はどうだ」
「……空いてるよ」
何故かぶすくれた顔をしつつも、勘右衛門は続けざま提示した初回の日程も了承してくれた。円滑かつ思い通りに話がまとまり、三郎は快い思いで勘右衛門に笑いかける。
「よかった。そしたら取り敢えず委員会室に集合ってことでよろしく。……ところで、その本の返却と貸出、私がやってやろうか? 快諾頂いたせめてもの礼だ」
上々の気分のまま、三郎は答えの分かり切った提案をしつつ勘右衛門の手元に手を伸ばした。
だが二冊の本は予想どおり、三郎の手が届く前に勘右衛門の腕に匿われる。
「余計な世話だっ! ニセモノに用はないっての!! しっしっ」
勘右衛門はまたもや失礼なことを言いつつ、虫でも追い払うかのような動作をした。おまけにイーッと歯を剥き出して威嚇してくる。それがなんだか人慣れしていない野生動物か何かのようで面白く、思わず笑みがこぼれた。
「そりゃあ失礼しました~」
三郎は笑いながら雑な謝罪だけを返した。図書室の受付は、雷蔵に任された大事な任務だ。勘右衛門がなんと言おうとも離れるつもりはない。
しかし勘右衛門は要求に従わない三郎にそれ以上何を言うこともなく、再び手持ち無沙汰そうに本の頁を繰り始めた。どうやら本気で追い払う気は毛頭なかったらしい。そんな彼の態度にも、未だにぶすくれた気分を引きずっているらしい不満げな表情にも、どうしてだか心が弾む。
三郎はひどく愉快な気持ちを噛み締めながら、雷蔵が修補した本の表紙をもう一度ゆっくりと撫でた。
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