あえかな器 //落乱-鉢尾小説 万年時計のまわる音

二、

学級日誌を先生に提出に行った足で、勘右衛門は委員会室へと向かっていた。本日は委員会活動はないのだが、そこで鉢屋が自分を待っているはずである。約束の時刻には十分に間に合いそうだ。特に急ぐ必要もないなと、歩き慣れた廊下をぼんやりと考えごとをしながら進んでいく。

蒸し暑い図書室で未知との遭遇を果たしてから、三月ほどが過ぎた。勘右衛門はあれ以来、定期的に鉢屋と共に過ごすようになった。無論、鉢屋の求めに応じてのことである。
面倒だとは思っているが約束は約束だ、男に二言はない。故にサボることもなく、きちんと毎回刻限に間に合うように委員会室へと赴いている。

――面倒だと思うくらいなら、断ればよかったのに。
いつものように、頭の中でもう一人の己が冷静に指摘してくる。魅力的な見返りとはいっても、喉から手が出るほどのものでもない。そもそも雷蔵の模造品なんぞの希望にってやる義理などないのだ。
しかしたとえ同じ場面に立ち戻れたとしても、自分は同じ結末にしかたどり着けないだろう。大変遺憾ながら、そんな確信が勘右衛門にはあった。
あの時勘右衛門は断らなかったのではなく、断れなかったのだ。自分に対しただ共に居て欲しいと乞うてくる鉢屋が、あまりにも必死だったので。

(だって雷蔵の顔で群れからはぐれた子犬みたいな顔されたら、断れないだろ……!)

内なる自分に言い訳するかのように、心中だけで恨み言を垂れる。そう、すべては鉢屋が雷蔵の顔をしているのが悪いのだ。そのせいで勘右衛門は不本意に乱され、今も平穏だったはずの貴重な休日を浸食され続ける羽目になっている。

「……やっぱり嫌いだ、あんなやつ」

生じた据わりの悪さを誤魔化すように、ぽつりとこぼした。

委員会室に赴くのは面倒だ。そう思っているのは事実なのだが、億劫なわけでは別にない。
確かに当初は正直気が進まなかった。なんせ鉢屋との関係は『どちらかと言えば気に食わない部類に入る同級生』程度の、薄っぺらいものでしかない。共に過ごす、ただそれだけのためにあれほど熱心に頼んでくるとは到底思えなかった。なら真の目的は何なのだろうと考えてみても、これといって何も浮かばない。真意の読めない鉢屋が不気味に思えてならなかったのである。
鉢屋が唐突に不可解な要求をしてくるようになった謎は、三月が過ぎた今も解明されてはいない。だが勘右衛門が感じていた気の重さ自体は、とっくの昔に解消されている。

「んで? 目的はなんなの」

委員会活動以外の用事で初めて委員会室を訪れたその日、勘右衛門は定位置に腰を下ろすなり単刀直入に尋ねた。明け透けに訊いたのは、彼の興が削げるよう狙ってのことだった。
いつもなら、来室者が勘右衛門である時点で鉢屋は顔すら上げはしない。しかし今日に限って勘右衛門は、戸を開けた瞬間から今に至るまで、絶えず視線を感じ続けていた。
慣れない待遇に対する居心地の悪さは筆舌に尽くし難く、早々に辞めさせたいと思ったのである。

人の態度が変化するのには当然理由がある。今回の場合は、鉢屋が謎の要求をし始めたことと関係があるに決まっている。だが肝心の『彼が要求する理由』自体がそもそも不明であるため、辞めさせる方法も見当さえ付けられなかった。
鉢屋ごときの真意を汲むのに、わざわざ労力を割きたくはない。だが先輩にも一目置かれる男の腹を探るのは、間違いなく骨だろう。とはいえ今後を思えば、放置するのも適当ではない。
思案の末に勘右衛門がたどり着いたのは、裏も打算もなく率直に疑問をぶつければ、謎に惹いてしまったらしい興味を削いだ上で、彼の真意を探る隙をも作ることができるのではないか、ということだった。

「目的?」

だが鉢屋はきょとんとした顔をした。その澄んだまなこに勘右衛門は苛立ちを覚える。
裏があるのを前提とした問いになおとぼけてみせるということは、勘右衛門を騙し通せると確信しているということだ。随分と舐められたものである。
内心の憤りを抑えて、わずかな揺らぎも見逃さぬよう彼の瞳の奥を注意深く探る。だがそこに、純粋な疑問以外の感情は片鱗さえも見当たらない。
鉢屋がいくら優秀でも、自分と同じく齢十四の若輩者だ。普段の振る舞いから見ても、勘右衛門をあざむくために己の感情を完璧に制御しているのだ、とは思えない。
ならば本当に勘右衛門が問うた意味が分からない、とでもいうのか。そんな馬鹿な話があるはずがない。

「俺を呼びつけて一体何がしたいのかって訊いてんだよ」

勘右衛門は端々にやや苛立ちを滲ませつつ、言葉を換えて問い直した。博識な大人が幼子の鋭い指摘に窮するように、直球の問いは得てして躱しにくいものだ。その問いに対する口にはできない答えを知っていたなら、なおさらである。

――さあ、どう出る?
改めて鉢屋に視線をやった勘右衛門はしかし、自分の目を疑うこととなった。鉢屋が、困ったように眉を下げ、両腕を組んで考え込んでいたからである。
憎たらしいほどに優秀な鉢屋が悩む姿など、芯から雷蔵を模している時くらいにしか見たことがない。雷蔵オリジナルと似ているようで似ていない懊悩している姿は大変珍しく、なればこそその反応は偽りではないのだろうと感じられた。

「……おい。まさか本当に何も考えてなかった、とか言うんじゃないだろうな」
「残念ながらそのまさかだ。これといって特に何もないんだが……何かなくちゃダメか? う~ん、どうしようか……」

疑いながらも言葉にした推測は、しかしこれまたあっさり肯定されてしまった。今度こそ言葉を失った勘右衛門をよそに、彼はなおも呑気な唸り声をあげている。勘右衛門の中の鉢屋三郎という人間が未知の生物と化した瞬間だった。

「特に何も持参してもないし……、う~ん、そうだなあ……」
「……なら、委員会の書類でも片付けるか?まだ残ってただろ、未処理の仕事」

うんうん呻いている鉢屋に完全に毒気を抜かれた勘右衛門は、脱力気味になりながらもどうにか一案を提示した。何のひねりも魅力もない、実につまらない提案である。

真の狙いを隠している立場で目論見から外れる提案をされたら、軌道を修正しないわけにはいかなくなるだろう。だが勘右衛門が提示したのは二人に等しく課せられた義務である委員会の仕事で、必要なものは全部この部屋にそろっている。この提案を躱すのには、相応の理由が必要だ。
未だこの呼び出しに本当に裏がないなどとは信じられない勘右衛門は、狡知こうちに長けた狐の尾を掴んでやろうとわざわざつまらない提案をしたのである。万が一――いや億が一、裏がなく提案が採用されたとしても、必達の仕事が減るだけで勘右衛門に損はない。二人で仕事をこなすだけならいつもと変わらぬ慣れた状況だ。妙な経緯と未知の生物のことを意識せずに済むという点においても勘右衛門には都合がいい。
二重三重の思惑を秘め保険まで備わった、急拵えながらも完璧な布陣であった。――の、だが。

「ああ、急いじゃいないが確かにまだ終わってない。じゃあそうするか」

思惑を張り巡らせた提案を、彼はしかし想定以上にあっさりと受け入れた。確かに採用される可能性も考慮してはいたが、勘右衛門は立て続けに肩透かしを食らった気分に陥る。あの時見せた必死の懇願は一体何だったのかと、勝手ながら微妙な気分になった。
本日が初回だからと取り繕っている可能性も疑ってみたが、鉢屋は終始至って普通だった。結局その日はいくらか雑談をしながら書類を片付けただけで解散した。他にしたことといえば、合間に鉢屋が持参したおやつを食べたくらいだった。

以降も召集される度に、書類仕事がなければ課題、それもなければ読書と、勘右衛門が適当に提案すれば鉢屋は必ず乗ってきた。することが決まれば、後は数刻あまりの時を提案したとおりにのんべんだらりと過ごすだけである。
おやつタイムも欠かさず設けられ、毎度どこで見つけてくるのだか、頬がとろけて落ちてしまいそうなくらい美味なる菓子に共に舌鼓を打った。
鉢屋はよく気が回る上に、合理的な考え方を好む性質の男だった。現実主義的な勘右衛門とは思考回路や価値観が似ており、共に居るのがまったくと言っていいほど苦にならない。

本当にただ共に過ごすだけでいいらしい。そうと分かってしまえば、気の重さを感じる点など存在しない。むしろ上物のおやつまで付いてくるその時間は、快適な時間にしかなり得なかった。今では勘右衛門も慣れ、これといってやることがなければ何を提案するでもなく、適当に好きなことをして過ごしている。
不満があるとすれば、後日提供される二つ目の特典のことくらいだ。鉢屋が融通する雷蔵との時間は、雷蔵が図書委員の当番の日や、自室で課題をこなしている時ばかりだった。図書室では当然ながら独り占めできるわけではないし、共に居られる時間の長ささえまちまちである。
こんな体たらくでは約束が違うだろうと思わなくもない。しかし他人を独占させるなど、殿様でもなければできるはずもない。それが分かり切っていたため、勘右衛門も最初から大して期待していなかった。ずっと目障りだった鉢屋が視界に入ってこないだけ、価値があるというものだ。
故に勘右衛門は取り立てて苦情を申し立てることもなく、鉢屋の求めに応じる形で委員会室へと足を運び続けているのだった。

これまでの経緯に思いを馳せている内に、勘右衛門は委員会室の前に到着していた。躊躇なく無言のまま戸を開け室内を見遣れば、鉢屋は既にいつもの席に着いている。
戸を開けた瞬間に顔を上げる鉢屋には、さすがに慣れた。彼の手元には本が一冊ある。どうやら読書をしていたようだ。

「よお鉢屋、今日はなんかあんの?」
「先週で大方片付いたから特になしだ」

室内に足を踏み入れながら開口一番に問えば、端的な答えが返ってくる。
言われてみれば確かに、先週は書類の量が比較的多かったように思う。勘右衛門はふうんと曖昧な言葉を漏らしつつ、静かに戸を閉めた。

先週、と彼が言ったとおり、実のところ隔週だった鉢屋の呼び出しはここ最近は週末毎にかかるようになっていた。
何故そんなことになってしまったのか。それも鉢屋が雷蔵に変装しているせいである。勘右衛門はその顛末を思い返しわずかに眉をひそめた。
……あれは一月ほど前、本日同様に呼び出されていた日のことだった。

「――勘右衛門、……」

いつもどおりのんべんだらりと時を過ごした帰り際、唐突に名を呼ばれた勘右衛門は、やはりいつものように目だけで呼びかけに応じた。鉢屋が次回の都合を尋ねてくるのは毎度そのタイミングだった。
しかしその日の彼は、次の言葉をなかなか継ごうとしない。何やらもじもじと尻込みしている様子を見せ、逡巡するように口を開けたり閉じたりを繰り返している。

「なに」

煮え切らない反応にしびれを切らし素気なく先を促すと、鉢屋は上目遣いでこちらの顔色を窺いつつ躊躇いがちに言葉を紡いだ。

「……その、――……来週末は、空いてる、か……?」

思いがけない問いを受け、勘右衛門は返答に詰まった。

――詰まる余地などない。元より隔週の約束だ、と断ればいいだけだろう。
内なる自分に此度も冷静に指摘される。しかし勘右衛門は鉢屋の、いや雷蔵の殊勝な顔にはどうにも弱いらしい。当初の約束にのっとって四角四面に断るのをよしとはできない自分がいた。ならば一体どうしたいというのだろうか。
鉢屋との約束は勘右衛門には利しかない。そして来週末は朝方街におりる以外に特別予定はない。要請に応じる理由は確かにないが、断らなねばならない理由もまたないのである。

「――……夕方なら、空いてるけど」
「……!そうか!じゃあ、来週末の夕方に」

どう返答すべきか決めかねて事実だけを口にすると、ぱっと表情を明るくした彼は即座に翌週夕方の約束を取り付けてきた。あまりにも邪気なく素直に喜色を示され、勘右衛門はなんとも面映ゆい心地を覚えそれ以上言葉を継げなかった。

以来、鉢屋は隔週という当初の約などなかったかのように、翌週の予定を尋ねて来るようになったのだった。結果元よりそれほど予定が詰まっているわけではなかった勘右衛門は、求められるままにほぼ毎週末を鉢屋と過ごすようになった、というわけだ。
これまでの関係を思えば据わりの悪い感覚は残る。しかし好意と捉えられる鉢屋の態度に、やはり悪い気はしないのだった。

悪い気はしない。そんな自分のことが、勘右衛門は分からなくなっていた。確かに利しかない取り引きではあるのだが、当初内なる自分に指摘されたとおり、喉から手が出るほどに欲しいものでもない。
しかも相手は憎きお邪魔虫・鉢屋三郎だ。にもかかわらず、何故自分は彼の要求を承諾し、さらに追加の要望までも受け容れてしまっているのか。理由を何度考えてみても、ヤツが雷蔵の顔を借りていることくらいしか思い当たらない。

それ以上に理解できないのは、彼が何故こんなことを求めてくるのかということだ。共に過ごした週末はそろそろ両手の指の数に達するかといったところだ。だが現在に至るまで特別なことは何もしていない。鉢屋には甘味代という経済的負担もある。継続するに留まらず頻度を上げたがる理由など、勘右衛門には想像もつかなかった。

鉢屋は元より素顔を隠している不可解なイキモノなのだ、思考回路も特殊なのだろう。考えたところで時間の無駄だ。
かなりの暴論である自覚はありながらも、勘右衛門は無理やりそう結論づけて、それ以上自分と鉢屋のことを考えるのを辞めた。現実に立ち戻り、この後の数刻をどう過ごそうかを考え始める。
今週は課題も出ていない。仕事も残っていないなら本でも読むか。そう思い、委員会室に置きっぱなしにしていた読みかけの本を手に取って定位置に腰を据えた。再開する場所を探して頁を繰る。

だが勘右衛門が読書を再開する位置を特定するより早く、鉢屋がおもむろに腰を上げた。勘右衛門はそれには気付いていない風を装いつつ、彼の動きに注意だけを向ける。
鉢屋は黙したままこちらへ寄ってきて、やがて勘右衛門の視野の外へ出て行った。ややして、背中に重すぎないくらいの圧力がかかる。次いで淡く空気が吐き出される音と薄い紙をめくる音が微かに耳に届いた。
じわり。わずかに重みの乗ったところから、温もりが伝わってくる。背中越しに感じる体温に、勘右衛門はこそばゆいような気持ちになって口をもにょもにょと動かした。

最近の鉢屋は、これまでにも増して妙な行動が増えていた。
取り引き開始当初は委員会での定位置に座っていたのだが、いつからだったか鉢屋が勘右衛門の近くへ寄ってくるようになった。多分共通の課題に取り組んだ際、相談するため隣に移動してきたのが最初だったろうと思う。それはいい。だが次第に鉢屋は、課題や仕事がない時は何故か勘右衛門の背中に自身の背を預けてくるようになったのである。

他人の身体にもたれかかるなどという甘えた行動は、兵助や八左ヱ門とは普段から互いによくしていることだ。相手が鉢屋でも、別に問題はないし鬱陶しいとも思ってはいない。だが長いこと敵視してきたこともあるのか、据わりが悪いというか妙な心地がするのだ。
伝わってくる温もりに阻害され、本の内容など少しも頭に入って来ない。だがそれを鉢屋に悟られるのはなんとなく癪で平静を装う。時々思い出したように頁を繰りながら、そういえば鉢屋の謎の行動はこの他にもあったなと記憶を手繰る。

たとえば先日は、うどん髪を研究させろなどと抜かし延々勘右衛門の髪をこねくり回していた。手櫛で梳いたかと思えば、括ってみたり編んでみたりとあれこれ試していたようだ。変装名人の探求心がそうさせるのか、髪結い忍たまたる齋藤タカ丸ですらさすがに飽きるのではと思われるほど長い間、彼はずっとこのうどん髪を弄っていたのだった。
その時勘右衛門は、髪を引かれる感触が思いの外こそばゆくて読書に集中できなかったため、いい加減辞めろと言おうとした。しかし目をやった先になんだか嬉しそうにしている鉢屋を見つけてしまい、結局何も言えなかった。
これまで鉢屋は、独特の髪が厄介だとケチを付け勘右衛門には絶対変装しないと豪語していた。それが今や自ら進んで研究に勤しんでいるのである。気が変わったにしても極端にすぎるのではなかろうか。彼にこれほど大きな心境の変化が生じた心当たりは、勘右衛門にはやはりない。

長年互いに関心がなかったのに、現在の鉢屋は親しい間柄でするような触れ合いを、勘右衛門としたがっているように見える。そんな彼の態度の変化や謎の行動に出くわす度に、それらが強く意識に引っかかり複雑な気分にさせられていた。
迷惑をかけてばかりいる癖に、雷蔵に受け容れられているずるいやつ。その程度の認識しか持っていないはずだった。雷蔵の姿を模している状況にも一切変化はない。
にもかかわらず、鉢屋の存在をかなり好意的に受け容れてしまっている自分の心境の変化もまたよく分からない。

「――おもーい、……んだけど」

己が胸を占める理解しがたい感情に耐えかねて、勘右衛門は少しだけ力を込めて背中の重みを柔らかく押し返すようにしながら、軽く不平を唱えた。

「うん」
「うん、じゃないだろ。俺の話聞いてんのか?」
「聞いてる」

噛み合わない返答に重ねて文句を言うと、短い応えと同時に背中が軽くなった。直後、雷蔵を模した鉢屋の姿が視野の中に戻ってくる。
勘右衛門は失われた重さと温度に僅かな寂しさを覚え――かけて慌てて首を振った。
一方的にのし掛かられていた状態が解消したのだ、喜ばしいことだろう。寂しいと思うわけがないと己に言い聞かせるように、不明確な寂寥感を追い払う。そして今度こそ読書に集中しようと、手慰みに進めてしまった頁を戻り改めて読み始める場所を探し紙面を目で辿る。

しかし再開位置の特定に至る前に、またもや邪魔が入った。今度は本の上に突然、影が落ちかかってきたのだ。不思議に思い影を辿るように顔を上げると、目の前に前屈みの姿勢で勘右衛門の手元を覗き込んでいる鉢屋がいた。

「何読んでるんだ?」

鉢屋はその場――机を挟んで勘右衛門の正面――に座り、勘右衛門の手にした本をしげしげと観察している。突拍子もない新たな珍行動に驚き思考停止していた勘右衛門だったが、やはり動揺を悟られるのはなんとなく許しがたく、無理やり口だけを動かして応じる。

「御伽草子だよ、図書室で借りたんだ」
「ふぅん。面白いか?」
「まあまあかな、前に雷蔵が勧めてくれた方が面白かった」

深く考えずに素直に返せば、鉢屋は再びふぅん、と関心があるのかないのか分からない音を漏らした。彼の目は今なお勘右衛門の手元に落とされたままである。
返ってきた曖昧な返事に、興味がないのなら訊くなと多少苛立ったが、すぐに鉢屋のことは無視しようと思い直した。
理解できない行動が気になってしまうが、相手は珍行動を繰り返しているUMAである。理由を問うたとて納得できる答えが返ってくるとは思えない。そもそも理由などないかもしれない。考えても無駄だと結論づけて、勘右衛門は三度みたび、本の内容へと意識を傾けた。

「――……触っても、いいか」

ようやく意識が本の世界へとのめり込み始めた頃合いで、唐突に鉢屋から尋ねられた。目的語すら存在しない、単純シンプルに過ぎる問いかけ。怪訝に思って顔を上げると、目の前の彼と視線がぶつかった。思ったよりも近くにあった薄色の瞳が、勘右衛門をひたと見つめている。

触る。……何を? 直前まで、彼の視線の先にあったものは何だったか――だが鉢屋が明確に言及していない以上、その対象が何であるかは推測の域を出ない。
尋ねるべきではない。直感的にそう思ったものの、目的も分からない状態で断るのはどうかと思う自分がいるのもまた事実だった。
鉢屋は凪いだ湖面のように透明な表情で、ただまっすぐに勘右衛門を見ている。

「…………、何に?」
「お前の手に」

気が進まないながらも問えば、即端的な応えが返ってきた。推測したままの返答に、勘右衛門は尋ねたことを後悔した。

何故そんなものを触りたいなどと言うのか。鉢屋が求める理由はやはり分からないのだが、断る理由はもまた、やはりないのだった。
戸惑いを拭えず、やや不本意に思いつつも小さくうなずく。すると彼は安堵したように顔をほころばせた。表情はそのままに、ゆったりとした動作で勘右衛門の手を取る。同時にぱさりとささやかな音を立てて、御伽の世界が閉ざされた。しかし今の勘右衛門には、それを気に留める余裕はない。

勘右衛門の手は、好んで用いる忍具が万力鎖であることもあって、傷だらけで皮膚が厚くごつごつとしている。日々の鍛錬の賜物と言える、我ながらたくましい手だ。だが鉢屋はそんな勘右衛門の手を、まるで壊れ物を扱うかのようにごく優しい手つきで撫で始めた。

勘右衛門は戸惑った。彼の触れ方は想定の範囲を完全に逸脱していた。こんな風に触られたことなど、未だかつてない。
鉢屋の考えていることが分からなくて目線を上げてみると、彼は今まで見たことがないような柔らかい笑み浮かべていた。新たに出くわした想定外に心の臓が大きく跳ねる。彼の顔へ視線を向けたことを後悔した勘右衛門は、慌てて顔を伏せて今なお撫でさすられている己の手に視線を戻した。

鉢屋の手が、硬い皮膚の上をゆっくりと行き来する。ややひんやりとしたそれに、勘右衛門はしかし触れられたところから熱が広がっていくような奇妙な感覚を覚えていた。
暫しされるまま撫でられていた勘右衛門はしかし、胸中に噴き出してくる羞恥に似たむず痒い感覚に、次第に耐えられなくなってきた。

「――……なあ。鉢屋って、もしかし、て……」

文机の木目を目で辿ることで気を紛らわせようとしていた勘右衛門は、浮かんだ疑問をそのまま口にしかけたが半ばで言葉を切った。それが考えなしにもほどがある、ひどく稚拙で自意識過剰な問いかけだと気がついたが故に。
しかしその時、勘右衛門は委ねた手に柔い圧力を覚えた。見れば、肌の上を行き来していたはずの鉢屋の手にやんわりと指先を握られている。恐る恐る視線を上げると、やや上目遣いにこちらを窺っている彼と目が合った。続きを乞うようなその眼差しに閉ざした唇が緩み、留めた言の葉が隙間からこぼれ落ちていってしまう。

「――俺のこと、好きなの?」

留められなかった問いは、実際に紡がれると一層稚拙に響いた。急激に湧き上がってくる羞恥に居たたまれなくなり、意識的に口角を持ち上げる。

「――……なぁんて、」
「ああ、好きだな」

自意識過剰かつ稚拙に過ぎた問いかけは、茶化そうとした勘右衛門を遮るように時間差で肯定された。思わぬ展開に、どう反応したらいいか分からず呆然とする。己の胸に納まる心臓が、唐突に忙しなく動いてその存在を主張し始めた。

互いに邪魔だと思っていたはずだ、三月ほど前までは間違いなく。少なくとも勘右衛門には、鉢屋に惚れられる理由など何も思いつかない。
思わぬ彼の返答を受け、つい心当たりがないかと思案してしまったが、鉢屋が自分に好意を抱いた理由など、どうでもいいことだった。尋ねて返答を得た以上は、自身の気持ちを答えて然るべきだろう。しかし勘右衛門には既に想う相手が他にいて、答えは決まっている。それが覆ることはない。
拒否する以外に選択肢など無い癖に、何故わざわざ問うたのか。しかも、己に向けられている感情がそういう好意だと感じていなければ選ばなかっただろう問い方で。勘右衛門は思慮を欠いた発言をした自分を責める。

だがいまさら悔いたとて、言葉にしてしまった以上はもうどうにもできない。問うた勘右衛門には言葉にして、自分の気持ちを答える義務がある。どれほど柔らかな表現を用いたとて、拒絶にしかなり得ない答えを。残酷な己に目眩めまいがした。

「――……俺は、その……雷蔵のことが……好きで、――」
「だからだよ」

勘右衛門は何故かざわめく心臓を必死に宥めながら、残酷な答えにしかならない己の想いを躊躇いがちに紡ぎ始めた。だが口にしかけた第三者への好意は、拒絶の対象である鉢屋当人によってやや食い気味に請け合われた。想定外の反応に言葉が途切れる。

「私の敬愛する雷蔵を好きな勘右衛門だから、好きなんだ」
「――は、あ?――なん、だよ……、それ……」

請け合われた驚きと言葉遊びのような表現のために、発言の意味を呑み込むのに時間がかかった。だが内容が浸透してきても、理解するには至らなかった。半端にこぼれた言葉は、身勝手な自覚はありながらも批判の色を帯びる。
そんな勘右衛門に、鉢屋は言葉を探すように視線を彷徨わせながら、しかし淡々とした態度で言葉を続ける。

「理解する必要はない、して欲しいとも思ってない。私はただこれまでと同様に雷蔵を好きなお前が私を受け容れてくれれば、それでいいんだ」

――理解する必要はない。
その言葉は、心理的な壁を築かれているとしか受け止められないものだった。消極的な拒絶という表現が似つかわしい、色味なき言葉たち。その声音は、直前に告げられたのは好意などではなかったのではないかと思うほど平坦だった。
一方で、再び手の甲を撫で始めた鉢屋の手つきや表情は、先刻と変わらず柔らかで喜色に満ちている。そのちぐはぐな様子が、勘右衛門を一層困惑させた。

鉢屋は、雷蔵を好きな勘右衛門が好きだという。これまでも理解不能な言動を繰り返してきたが、その発言が最も意味が分からなかった。
しかも此度の珍言動には、面はゆさや不思議な熱のような温かみを感じることはなかった。むしろ勘右衛門は身体の奥がひんやりと冷えるような嫌な感覚に侵されつつあった。

彼の珍言動自体と己を襲う不快な感覚のどちらもに困惑し、何も言えなくなった勘右衛門は、委ねた手を引っ込めることもできずただ呆然とした。

勘右衛門の手の甲を撫でる鉢屋の手は、変わらずその肌に不思議な熱を残していく。
一方で腹の奥には薄ら寒い感覚がじわじわと広がりつつあり、胸では心の臓がその存在をなおも小さく主張し続けてもいた。

理解し難い種々の感覚に苛まれる勘右衛門は、居心地の悪さを募らせながら、ただ黙ってその場に座っていることしかできなかった。

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