三、
「あ~、やっと終わったあ~」
勘右衛門は手にしていた筆を放り出すと、背中から後ろに転がり両腕をぐんと上に伸ばした。凝り固まっていた肩周りが伸び、少しだけ身体が軽くなったような気がする。
「お疲れさん。今週は少し多かったな」
今し方書き終えたばかりの書類を隣から引き上げながら、鉢屋が労いの言葉を掛けてくれる。そのまま沈黙した背中を暫しぼんやり眺めてから、勘右衛門はおもむろに身を起こした。
空いた机上に突っ伏して、目だけで隣をそっと窺い見る。書面を確認している鉢屋の口元は柔く弧を描いていた。静かに文字を辿っていくその穏やかな横顔を、勘右衛門は胸中に広がる満足感を噛み締めつつ眺める。
柔らかな笑顔、といえば。まず思い浮かぶのは雷蔵である。人と会話している時のみならず、読書中や書き物をしている時など、彼はしばしば優しげな微笑を浮かべている。そんな雷蔵の温かい笑顔が、勘右衛門は大好きだ。
一方で、今己の目の前にいるのは〈まがい者〉の方である。穏やかな笑みという点は同じだが、雷蔵のそれとはまったく似ていない。少なくとも勘右衛門はそう思っていた。
まず、鉢屋の笑顔には胸が温かくなるような感覚にはならない。それは鉢屋の笑みが優しいというより緩いという表現が似合いそうな雰囲気だからかもしれない。ただ、彼が大変寛いでいるらしいことは分かるので、気を許されているのだと思うと悪い気はしなかった。むしろ今では、そんな鉢屋を眺める時間を割と気に入ってすらいた。
あれほど毛嫌いしていたのに。鉢屋のことを好意的に受け容れている今の自分を以前よりは素直に認めてはいるのだが、あまりの変わりように我ながら少々呆れもする。
好感を持たれることは、誰が相手でもそれなりに喜ばしいことなのだから仕方がない。しかも相手はあの鉢屋で、なかなか懐かない猫に懐かれたような気分になってしまう点も、彼に絆されつつある一因かもしれない。
鉢屋を含めた同級生五人で連むことは以前よりままあったのだが、いくら記憶を手繰っても、彼がこれほどゆったりとくつろいだ空気を纏っていたことはなかった。その希少性を考慮すれば、優越感を覚えてしまうのは無理もないだろう。
そんな微妙な言い訳を勘右衛門は心中だけで唱えた。
生産性のないことに思考を費やしつつ彼の横顔をぼんやり眺めていると、確認を終えたらしい鉢屋が小さくうなずいて視線を上げた。その動きに合わせて、勘右衛門はいつものように意識的にゆっくりと目を閉じる。
「うん、問題ないな」
「当たり前だろ~」
目を閉じたままのんびり請け合うと、傍らから微かな笑い声聞こえてきた。その柔らかな響きがまた心地良くて、勘右衛門も口角だけを持ち上げてゆったりと笑う。
「勘右衛門」
「昼過ぎだったらいいけどぉ」
少し間を置いてから穏やかに名を呼ばれ、勘右衛門は次週の予定をまったりと答えた。 いつもの次回の予約である。今やほぼ毎週末を共に過ごしているのだ。阿吽の呼吸とはいかないまでも、鉢屋のことはかなり理解できるようになった。打てば響くようなやりとりができたことに、なんとなく感慨を覚え悦に入る。
「また手に触ってもいいか?」
だが返ってきた言葉は、勘右衛門の返答とはまったく噛み合っていなかった。覚えた感慨を即打ち壊された勘右衛門はつんのめり、勢いあまって机に額を打ち付けそうになった。
――どの辺りが理解できるようになったって? いや、そもそも勘右衛門の手を触りたがること自体が意味不明である。やはりこいつはUMAだ。理解できる日なんて一生来ないに違いない。勘右衛門は瞬時に前言を撤回した。
一人空振りした決まりの悪さに苦い笑いが込み上げてくる。しかし、ふと顔を上げたところで苦笑はすぐに引っ込んだ。思いのほか近い位置に、やたらと神妙な表情をした鉢屋の顔があったからだ。
この要求を受けるのはこれで二度目だが、勘右衛門は今回も返答に迷った。以前と同様に、胸の辺りがざわついて落ち着かない。どうすべきか思案しつつ鉢屋をぼんやりと眺めていると、いつも自信に満ちているその顔が見る間に情けなく歪んでいった。最終的に、垂れ耳と垂れ尾の幻が見えそうな哀愁まで漂わせ始める。
「……、いいけどさあ……」
迷い犬のような哀れさに負け、半眼になりつつも承諾する。その途端、迷い犬があからさまに表情を明るくした。
自分の返答ひとつで浮き沈みする鉢屋に、勘右衛門は腹立たしさと嬉しさが入り交じったような複雑な気分に襲われる。何故かは分からないがひどく据わりが悪い。
勘右衛門は、己が持て余した謎の感情を拳に乗せて、その原因たる鉢屋にぶつけた。自身の気持ちが理解できていない時点で、ただの八つ当たりである。
「痛い」
だが鉢屋は一言文句を垂れただけで、自身に危害を加えたその拳にむしろ嬉々として手を伸ばしてくる。
彼が嬉しそうにするほど、据わりの悪さに蝕まれるような感覚に陥る。逃げ出したい衝動に駆られるが、いまさら手を引っ込めるわけにも実際に逃げ出すわけにもいかない。落ち着かない己の心となんとか折り合いをつけようと格闘しつつ、鉢屋の肩に打ち付けていた拳を解いてそのまま彼に委ねた。
鉢屋は先週と同じように勘右衛門の手を柔らかく撫でる。彼に触れられたところにはやはり不思議な熱が宿った。撫でさすられるにつれてその範囲は広がりゆき、くすぐったさと気恥ずかしさが膨らんでいく。
「……楽しいか? それ」
「ああ」
膨らむ居心地の悪さにややぶっきらぼうになりながら尋ねると、鉢屋は手元に視点を固定したまま即答した。口元には先刻こっそり眺めていた時よりも深い笑みが刻まれている。
「――、美女の白い柔肌ならまだしも、硬くて傷だらけの男の手がそんなに面白いかねえ……」
落ち着かない気持ちを誤魔化すように、勘右衛門は呆れた風を装った言葉を吐いた。意識的に己の手を卑下することで心の平衡を取ろうと試みる。
実際、上級生にもなれば珍しくもないことだが、勘右衛門の手は本当に傷だらけで、お世辞にも綺麗とは言えないほど荒れている。
「たくさんの傷痕も硬くなった皮膚も、日々の鍛錬の証だろう。勘右衛門の努力を物語る美しい手だ」
勘右衛門の戯れ言に対し淡々と紡がれたのは、率直な賛美の言葉だった。むしろそれこそが美点なのだとなんのてらいもなく断言した慈愛の滲む彼の表情に、目を奪われる。柔く細められ淡い光を弾いて煌めく瞳は、真摯な色を宿していた。
「……っ美しい、って言うなら鉢屋の手の方だろッ」
鉢屋なんぞを相手に、一体何をしているのか。我に返った勘右衛門は、釘付けになっていた己が急に恥ずかしくなった。自分のせいでしかない不満が口調に滲み出ないようどうにか体裁を整え、彼の意見を遠回しに否定する意図も込めながら鉢屋の手の方に話題を逸らす。
努力を認めてもらえることは素直に嬉しい。だが美しいという賛美は、やはり己の手には不相応だとしか思えなかった。鉢屋の手は、もちろん傷痕もたくさんあるが概ねなめらかに整えられており、華奢な作りであることも手伝って女性的とも言える美しさを持ち合わせている。
勘右衛門の賛辞に対し、鉢屋は謙遜することもなく得意げに胸を張った。
「まぁな。日頃から念入りに手入れしてるんだから当然さ。だが見かけの美醜以外にも、美しいものはたくさんあるだろう? この手は私が知る中でもかなり荒れている部類に入る。私は勘右衛門の努力が美しいと言ってるんだ」
勘右衛門の心中を知ってか知らずか、鉢屋は賞賛を素直に受け取った上で、今自身が愛でている傷だらけの手に今一度話題を戻した。勘右衛門の手を見つめ誇らしげに笑う鉢屋の顔が輝かんばかりだったので、正対した勘右衛門は継ぐべき言葉を見つけられずに押し黙る。
――どうしてそんな顔するんだ。
勘右衛門の胸中に、こそばゆさと罪悪感に似た感情が同時に押し寄せてくる。こんなにも直球で好意を向けられるのは初めてだ。それにどう向き合えばいいのか分からない。
今の自分たちは、鉢屋から一方的に想いを告げられただけ、という名前もつかぬ不明瞭な関係だ。彼の好意がどんな感情に根差しているのかも未だ理解できていない。それ故にどうするのが〈正解〉なのか分からず、勘右衛門は途方に暮れてしまうのだ。
――鉢屋も理解する必要はないと言っていたじゃないか、思い悩む必要などない。ただ彼のしたいようにさせておけばいい。
此度の内なる己の指摘も尤もだと思うのに、考えないようにするほどむしろ頭が鉢屋のことでいっぱいになってしまう。
「――なあ。鉢屋は俺のこと、……どういう意味で好きなわけ?」
故に勘右衛門はごく素直に、率直に尋ねた。躊躇う気持ちがないことはなかったが、他人の感情を正確に推し量るなどできようがない。本人に訊いた方がずっと効率的で正確だと思ったのである。
必要ないと鉢屋は言うが、気持ちを返せていないことにはどうしても負い目を感じてしまう。なによりこんな不可解な状況に身を置く気持ち悪さをどうしても拭えなかった。
「……どうしてそんなことを訊く?」
鉢屋は怪訝そうに眉をひそめた。漂う面倒臭そうな空気が訊くなと言っていたが、既に訊くのだと決心した勘右衛門は己の意志を曲げるつもりはない。
「だって分かんないんだもん。この歳にもなって『お友達になって欲しいの♡』なんて阿呆な申し入れしてきたんだとはさすがに思ってないけど、恋愛感情なら普通は自分を好きになって欲しいもんだろ? 雷蔵を好きな俺がいい、なんて言う鉢屋が本気で理解不能」
「理解する必要はないと言っただろう」
此度もまた、やんわりと拒絶された。そっけない彼の返答に勘右衛門は苛立つ。自分は紛うことなき当事者だ、そんな言い方はないだろう。
「なんだかモヤモヤするんだよ! なに、鉢屋は俺に不愉快な気分を強いるわけ? お前の希望に副ってあげてる俺の求めに応じてやろうって誠意はないと?」
苛立ちのまま矢継ぎ早に自らの正当性を主張すると、彼は気まずげに顔を背けた。
「……勘右衛門は、雷蔵のことだけを考えてればいいんだ。私のことは放っといてくれ」
「へぇ、俺には時間をよこせって言う癖に、俺には説明の一つも求めるなと。勝手だな」
折れない鉢屋を詰りつつ、勘右衛門は彼に委ねていた手を引っ込めた。直球の批判が刺さってはいたのか、彼の反応は鈍く勘右衛門の手を逃してしまう。伸ばされた彼の手は未練がましく宙を掻き、そのまま彼の膝上に力なく落ちた。それをやや憐れに思ったが、先刻の返答では到底納得できない。
説得力のなさに自覚があるのだろう、鉢屋は目を逸らしたまま沈黙している。そんな頑なな態度に勘右衛門は強い不満を覚えた。不本意でもこれまで振り回されてやってきたのだ、たまにはこちらの希望にも応えてもらわねば不公平だ。
「……はぁ、俺やだなあ~。こういうよく分からん状態って気持ち悪くてさあ~」
故に大仰なため息をついてわざとらしい悲嘆を漏らすと、鉢屋は非難がましい視線を向けてきた。文句を言いたいのはこちらの方だ。故に勘右衛門は視線を無視して茶番を続ける。
「不愉快な気分で貴重な休みを過ごすのも馬鹿馬鹿しいし、もうここ来るの辞めよっかなあ~……なぁ、そこんとこどう思うかね、鉢屋三郎くん?」
素知らぬふりを演じつつあからさまに当て擦ると、鉢屋は深いため息を一つ吐きゆっくりと目を閉じた。ようやく思いどおりの状況に持ち込めたようだ。ほくそ笑んだ勘右衛門は、彼の薄い唇からぼそぼそと紡がれる言葉に耳を傾ける。
「……私自身、正直よく分かってないんだ。だが勘右衛門が雷蔵を好きだというのがいいんだと思う。私の敬愛する雷蔵を好きだというお前のことは、信じられるし好きだと思う」
だが待望の説明を受けても、向けられている好意への理解は少しも深まらなかった。新たな情報はほとんどない上に、人が人を好きになる理由として納得できる感情を何一つ拾うことができなかったのだ。
しかし鉢屋は真剣そのものである。今の発言が真実、彼の抱えている想いなのだろう。
せっかく話す気にさせたのだ、多少なりとも理解したい。そう願う勘右衛門は彼に一体何を問えばいいかと頭を捻る。しかし妙案は何も浮かばず、故に思いつくに任せ疑問を投げかけてみることにした。
「――鉢屋のことは嫌いなのに?」
「多分そこが一番重要なんだ」
「……どういうこと?」
ひどい話だと自覚しつつ口にしたことをごく自然に請け合われ、勘右衛門は戸惑った。だが鉢屋は、むしろ勘右衛門が戸惑う理由が分からないと言いたげに小首を傾げる。
「だって自分が嫌悪してるものを好きって言うやつのこと、好きになんかなれないだろ。たとえ異なる価値観として許容できたとしても、心から好きになるのは無理だ。違うか?」
何を当たり前のことを、と言わんばかりに同意を求められ、勘右衛門は言葉を失った。
価値観についての話自体は、別に妙なことだとは思わない。人は互いに共感し合って生きている。根底にある感覚の違う他人と感覚を共有するのは難しい、勘右衛門とて同意見だ。
だが鉢屋はそれを『勘右衛門が鉢屋を嫌い』だという話の中で口にしたのだ。しかもそんな勘右衛門を好きだという。それはすなわち、勘右衛門が嫌っている鉢屋のことを鉢屋もまた嫌っている、ということに他ならない。
つまり鉢屋は自分自身に対し〈嫌悪〉という単語をさらりと口にしたということになる。まるで他人事のように、なんの感慨もなく。
しかも、そんな彼に怯んだ勘右衛門をきょとんとした顔で見つめてくるのだ。あまりにも淡泊な様子に、悪寒が背筋を這い上がってくるような感覚に襲われる。ぞわぞわする不快な感覚を、勘右衛門は彼に気づかれぬよう小さく身震いして宙に逃がした。
「勘右衛門と一緒に居ると、胸が高鳴ると同時に安心もする。こんな不思議な感覚、こんなに高揚するのは初めてなんだ」
勘右衛門が怯んだことに気がつかなかったのか、彼は目元を綻ばせてそう続けた。 この発言だけを聞けば、勘右衛門への好意は恋愛感情なのだろうと思える。だが前提にあるらしい彼が彼自身に向けている感情を知った時点で、その感情を恋愛感情と理解できる要素は失われている。
「だから勘右衛門には、これからも雷蔵を好きで、私を嫌いでいて欲しい。雷蔵以外の人間を、――勘右衛門を好きだと思える私でいたいから」
理解不能な懇願をしてくる鉢屋はなお、うっとりとした顔をしている。面の下の頬が薄紅に染まっているに違いないと思えるほど甘い表情だ。
だがその瞳には濃い陰が掛かっているように勘右衛門には見えた。敵を屠る間際であったかと思わせる冷たい空気が、彼から吹き出しているような感覚に囚われる。
――何か言わなければ。そう思ったが、感情の抜け落ちた顔で当然そうに自分自身を否定した鉢屋が、その凪いだ表情が得体の知れないものに思えて、恐ろしさのあまりに言葉が出ていかなかった。
その矛盾を自覚したら、鉢屋は勘右衛門が何を言おうとも迷うことも躊躇うこともなく自身をくびり殺してしまいそうに思えてならなかった。
「……一応説明したんだ、もういいだろ?」
唐突にそう言いって手のひらが差し出された。鉢屋は既にいつもと変わらぬ雰囲気に戻っている。
置いてけぼりになってしまった勘右衛門は、結局紡ぐべき言葉を見つけられないまま、要求に応じ彼に手を委ねる以外何もできなかった。
***
「――えもん。ねぇ、勘右衛門ってば!」
「えっ? ――あ、……ごめん雷蔵。なに?」
肩を軽く揺すられて、勘右衛門はようやく雷蔵に呼ばれていたことに気がついた。顔を向けると、眉を寄せた彼と目が合う。やや不満そうなその様子に素直に即謝罪した。
本日の図書室は珍しいほど閑散としていて、勘右衛門は今当番を務める雷蔵と二人きりである。こんな幸運はそうそうないというのに、ぼんやりして時間を浪費してしまっていたらしい。なんともったいないことをしていたのだろうか。
勘右衛門は頭を振って己が思考から暗雲を追い払ってから、改めて雷蔵に向き直った。すると眉を正位置に戻した彼が、両の手に一冊ずつ持った本を順に掲げて見せてくれる。
「これがこの間の続き。でもこっちの方が勘右衛門の好みに合ってそうかなって思うから、どっちにする? って訊いたの。……勘右衛門、今日はなんだかぼうっとしてるみだいだね。どうしたの? どこか具合でも悪いのかい?」
恐らく二度目となったのだろう説明をもう一度した後で、雷蔵が心配そうに尋ねてくれる。至って健康である勘右衛門は彼に気にかけて貰えたことを嬉しく思う反面、ただ上の空だったばかりに彼に要らぬ心配をかけてしまったことを申し訳なく思った。
――鉢屋ごときのせいで、雷蔵に気を遣わせるだなんて。そんな風に八つ当たり気味に憤慨したところで、勘右衛門ははたと気がついた。此度の悩みの種である鉢屋三郎は雷蔵の〈まがい者〉である。雷蔵になら、いや雷蔵にしか相談できない話だろう。
しかも今は鉢屋に『絶対に邪魔しない』と約束されている時間だ。当然ながら、周囲にそれらしき気配もない。完全に二人きりである今を逃す手はないだろう。
「――実はこの前、鉢屋が自身を嫌悪してるって話を、本人から聞いてさ。なんかこう……複雑な気分になっちゃって。雷蔵も、初めて聞かされたときはやっぱり困惑しただろ?」
苦く笑いながら、胸につかえていたことを吐露して雷蔵に同意を求める。一人抱え込んでいたことを口に出しただけでも、かなり気が楽になった気がした。
だが期待していた共感の言葉は返って来なかった。雷蔵は元より丸い目をさらに丸くし、ただ勘右衛門を見つめてくるだけである。それがどういう反応なのか分からず、勘右衛門は小首を傾げて見つめ返した。すると雷蔵は表情は一切変えないまま、ごくゆっくりと口を開いた。
「――……驚いた。最近仲がいいな、とは思ってたけれど、勘右衛門にはそんな話もするんだね、三郎は」
感心したように紡がれる想定外の言葉に、今度は勘右衛門が目を丸くする番だった。
「えっ? 雷蔵はさっきの話、聞いたことなかったの?」
「三郎は自分のことはあまり話したがらないからなあ」
未だに驚きが尾を引いている様子で、原物が間延びした音を出した。そんな雷蔵の様子に、勘右衛門は己の胸が小さく音を立てたことを知覚した。
あの鉢屋が、自分に話していて雷蔵には話していないことがあるなどとは思ってもみなかった。しかも彼自身に関わる内容を、である。それがなんだか嬉しく思えて、勘右衛門は勝手につり上がりそうになる口角を意識的に抑えた。
鉢屋にとっての自分は、思っていた以上に特別な存在なのかもしれない。……もしかしたら雷蔵よりも。そんな考えが頭をよぎり、勘右衛門は至極いい気分になった。
「でも、それを聞いて少しだけ納得できたかも。三郎は自分が好きじゃないのか。だから自分のこと全然話そうとしないのかもしれないな。……別にいいんだけどね、話したくないなら話さなくて。でも三郎自身のことを、そんな風に思って欲しくないなって……」
ひどく寂しげにこぼされた言葉に、勘右衛門ははっとした。雷蔵は眉尻を下げた悲しげな微笑みを浮かべている。
「三郎ってさ、いつも自分のことは二の次だろう? そういうのはよくないって何度も言ってるんだけど、ただ笑うだけで全然取り合ってくれなくて。それが三郎が自分を嫌いだって気持ちから来てるなら、寂しいし悲しいことだよね……僕らは、三郎のことが好きなのにさ」
勘右衛門には、寂しげな雷蔵に同意することも彼を励ますこともできなかった。
〈いつもの鉢屋〉のことなど、勘右衛門は何も知らないのだ。ずっと雷蔵だけを見つめてきて、鉢屋のことは煙たがっていただけである。彼が雷蔵に、周りの人間にどう接しているのかということに、少しの興味さえ持っては来なかった。
そして雷蔵も知らないことを勘右衛門が知っていたのは、ただ勘右衛門が問い詰めて白状させたからに過ぎない。雷蔵は優しい人だ。故に気になってはいても、強いて言わせようとはして来なかった。ただそれだけのことだったのである。
雷蔵よりも自分のことを特別に思っているのかも、なんて思い上がりも甚だしい。そもそも勘右衛門のことは、雷蔵を好きだから好きなのだと言っていたではないか。その構造は未だによく分からないが、向けられている感情の起点は雷蔵なのであって勘右衛門ではない。鉢屋は雷蔵を心から慕っているし、雷蔵もまた鉢屋のことを大事に思っている。
幼稚な優越感は瞬く間に消え失せ、勘右衛門は心の温度が急激に下がっていくのを感じていた。自己嫌悪が胸の奥底にひたひたと湧いてくる。
「ごめん、なんだかしんみりさせちゃったな。僕らがここでああだこうだ言ってもどうにもならないのに。この話はもうやめよう。……勘右衛門、これからも三郎の話聞いてやってね。勘右衛門には聞いて欲しいと思ったから、三郎は話したんだろうから」
黙ってしまった勘右衛門を気遣ってか、雷蔵がそっと声を掛けてくる。
鉢屋は、勘右衛門に聞いて欲しくて話したわけではない。強いられて仕方なく話しただけなのだ。
だが優しい雷蔵に、これ以上要らぬ心配をかけたくない。そこで勘右衛門はどうにか口角を持ち上げると、一応小さくうなずいた。勘右衛門の反応に、雷蔵が笑みを返してくれる。いつもと変わらない慈しみを帯びた彼の、勘右衛門が大好きな笑顔が、今の冷え切った勘右衛門の心には痛かった。
「……そういえば、一度訊いてみたいと思ってたんだけどさ。僕ら全然見分けがつかないってよく言われるのに、勘右衛門は見分け完璧だよね。一度も間違ったことないだろ。なんかコツとかあるの?」
返事ができずにいた勘右衛門を気にしてか、雷蔵が唐突に尋ねてきた。
話題を変えようと思って発されたに違いないその一言が、ずっと靄がかかったようだった勘右衛門の思考を、突如稲妻がごとく切り裂いた。
自分自身が嫌いな鉢屋はずっと、心から敬愛する不破雷蔵になりたいと願ってきたのだろう。多分〈鉢屋三郎〉という人間など消えてしまえばいいとさえ思っている。
彼は素顔を隠すためという名目で、日常のほとんどの時間を雷蔵の顔で過ごしている。……別に他の誰の顔でも、いいはずなのに。その事実が、勘右衛門の推測を証明していた。雷蔵の言う自分のことが二の次だというのも、自身に価値を見出していないが故の自然な行動なのだろう。
だが変姿の腕を上げ雷蔵との見分けが付き難くなってきた現在に至って、鉢屋は己の輪郭がぼやけていく感覚に恐怖心を抱くようになっていた。恐らくは無自覚に。だから二人を決して間違えない勘右衛門を〈鉢屋三郎〉の輪郭を確かめるための存在として、求めずにはいられなかったのだ。
鉢屋は勘右衛門に対して好意を抱いているわけではない、その能力に依存しているだけなのだ。
ずっと理解できなかった鉢屋の言動の背景に合点がいき、視界が開けるような感覚に包まれる。向けられる感情の正体が判明したのだ、もう彼の求めに対し判断に困ることもなくなるだろう。長々悩まされてきた勘右衛門にとって、それは喜ばしいことである。
だが勘右衛門は今、何故かひどく泣きたい気持ちになっていた。
「……コツなんて、ないよ。雷蔵と鉢屋が似てるなんて一度も思ったことないし。全然違うじゃん」
「あの変姿の腕で? 嘘だろ……、すごいな勘右衛門は。観察力の違いなのかなあ……残念、全然参考にならないや。僕も三郎の変装、完璧に見破れるようになりたいんだけどなあ」
雷蔵がいたくがっかりしたようにぼやいた。そんな彼を、勘右衛門は眩しいものを見るような気持ちで眺める。寂しいような悲しいような、なんとも言えない切なさが胸に迫る。
小さく鳴った胸の音。
今、自分を苦しめている悲しくて寂しい気持ち。
それらの原因たるこの感情に、――気づいてはいけない。
「その内ちゃんと見分けられるようになるさ。鉢屋は雷蔵の相棒なんだから」
勘右衛門は、苦しい自分の心に無理矢理蓋をした。そして未だ残念そうに肩を落としている雷蔵に優しく笑いかけると、肩を柔らかく叩き励ましたのだった。