四、
季節は進んで秋も深まり、陽が落ちるのも大分早くなった。
勘右衛門は夕餉までの自由時間を利用して、兵助と課題に取り組んでいた。薄暗くなり始めた室内に明かりを灯して、二人並んで文机に向かう。暮らし慣れたとはいえやや手狭な空間には、灯明の燻る音と季節の移ろいを感じさせる涼やかな虫の声だけが聴こえている。
勉学に適した静粛な環境が整っている。だが残念なことに勘右衛門の筆は滞りがちだった。課題が難し過ぎるわけではない。とはいえ楽勝と言えるほど簡単でもなく、提出期限は明日と最早猶予はない。
差し迫った状況だと分かっているのにそれでも課題に身が入らないのは、とある級友の顔が頭から離れないせいだった。
先日図書室で、悩みの種となっていた鉢屋のことを雷蔵に打ち明けた。その結果、勘右衛門はついに未知の生物最大の謎解明に成功したのだ。鉢屋が勘右衛門と一緒に居たいなどと唐突に言い出したのは、彼が自身を見失うことに自覚なく恐怖心を抱いているが故だと分かったのである。
長い年月の間、日常的に他人の顔を借りて過ごしてきた彼は今、〈鉢屋三郎〉という人間を見失いかけているらしかった。故に、雷蔵と鉢屋を完璧に見分ける勘右衛門の存在を無意識に強く欲していたのである。
つまり彼が自分を好きだなどと言うのは、執着心もしくは依存心と恋慕の情を混同しているだけなのだ。本人に確かめたわけではもちろんないが、勘右衛門はそれが真実だと確信していた。
それが依存と執着のどちらだろうと、される側が返さねばならない気持ちなど存在しない。故にこれからも鉢屋の希望に副ってやろうと思うなら、勘右衛門は今までと同様に都合のつく範囲で彼に付き合ってやれば十分と言える。
鉢屋による謎の要求の動機が判明し、頭を悩ませる必要はなくなった。だが勘右衛門はここ最近、気が付くと彼のことばかりを考えぼんやりしてしまっているのだった。勘右衛門自身困っているのだが、意識してしていることではないために、己の行動をどうすることもできずにいた。
「なあ勘右衛門、六問目の解答だけど……、どうしたんだ? 全然進んでないみたいだけど」
隣で黙々と課題を進めていた兵助が、不意にこちらの手元を覗き込むと眉を寄せた。
兵助は学級委員長ではないため、級友の成績などほとんど知りはしない。だが勘右衛門についてだけは概ね正確に把握している。長い時を同じ部屋で過ごし切磋琢磨してきたが故に、互いの実力は誰よりもよく分かっているのだ。
だから勘右衛門の課題の進み具合が明らかに遅いことにも、当たり前にすぐ気が付いたのだった。
「うーん、なんか……気が散っちゃって。お腹空いてるからかなぁ、食欲の秋だし」
空腹などまったく感じていなかったが、窓の外に辛うじて視認できる色づいた木々を眺めそう嘯いた。
兵助もまた、鉢屋とは親しい間柄である。そして勘右衛門が今抱えている悩みは重く繊細なものだ。聞かされた兵助もきっと、課題どころではなくなってしまうだろう。そもそも他人の事情は第三者に軽々しく口にするべきものではない。そう考えたが故に、適当な言い訳が欲しかったのだ。
その考え自体は適切だったと思う。だが判断の過程において、勘右衛門は重大な過ちを犯していた。結果適当についた嘘に、兵助は瞳を輝かせて食いついてきた。
「そうだったのか? それなら高野豆腐を食べなよ! なんだ、もっと早く言ってくれたらよかったのに……あれ、懐に入れといた分もうないや。ちょっと待って、今出すから」
「いや、高野豆腐はいいや」
備蓄分を出すべく嬉々として腰を浮かせた豆腐小僧の腕をしっかと掴み、座り直させつつ端的かつ丁重に断りを入れた。
勘右衛門はつい先日、彼の自信作たちの品評会に付き合わされたばかりである。本当に腹が減っていたとしても、正直言って豆腐は暫く見たくない。
「そう? 遠慮しなくてもたくさんあるし、まだ夕餉まで結構時間あるぞ?」
「うん、大丈夫。お腹空いたとか気のせいだった。また今度もらうよ、ありがとう」
なお勧めてくる兵助の腕をがっちり掴んだまま礼を言い、強制的に豆腐の話を終わらせた。
それでも兵助はそわそわして、こちらの顔と掴まれている己の腕とを見比べている。だが勘右衛門は彼の言外の求めを笑顔で黙殺した。同情心で地獄を見るのはごめんである。
一推しのおやつを勧め損ねた豆腐小僧が解放されたのは、彼が見比べ動作を辞めてからたっぷり十は数えた頃だった。唇をとがらせて渋々といった風情で文机に向き直る兵助に、勘右衛門は無事高野豆腐版豆腐地獄を回避したことを確信し、こっそり額の汗を拭いつつ安堵の息をついた。
「最近なんだか元気がないみたいだけど、どうかしたのか?」
話は終わったと思っていたところに唐突に声をかけられ、勘右衛門はぎくりとして汗を拭う手を止めた。追って投げかけられた内容を反芻し、異なる種類の驚きを覚える。
発言主を見遣れば、兵助は真面目な顔で筆を墨液に浸している。その大変珍しい状況、そこから推察される親友の意図に、勘右衛門は思わず相好を崩した。
兵助は並行作業を苦手としていて、課題中に無関係の会話をすることなどまずない。しかし今、彼は机に課題を広げたまま、筆を手放すこともせず、のんびりとした風情で、課題とはまったく関係ない話題を振ってきたのである。世間話のようなその話題に不釣り合いな、至極真面目な表情のままで。
恐らく兵助は、先の会話で勘右衛門が嘘をついていたことに気づいているのだろう。そして問い詰めるつもりはないが、それでも勘右衛門のことを気に掛けてもう少し話をしたいと思ってくれたに違いない。そこで雑談の体でそれとなく話を振ってみた、といったところだろう。……この上なく関係のあることに直接言及するような問いになっていたが。
長年の付き合い故か、兵助の接し方はいつだって勘右衛門に負荷がない。唯一、豆腐のことになるとその限りではなくなってしまう点だけが至極残念である。
「え~、どうもしないけど? 俺なんかおかしかったか?」
「いいや? なんだか最近上の空みたいだな~って」
その問いにも適当な返答をしついでのように尋ねてみれば、兵助は否定した癖に不審に思っていたのだろう点をあっさり答えた。やっぱりおかしいと思ってたんじゃないか、とやや拗ねた気持ちになったが、彼に気付かれてしまったのは己の至らなさ故だと思い直し素直に反省する。
「集中できないんなら、そっちを先に片付けた方がいいんじゃないか? 可能なら、だけど」
柔らかく諭すような提案が、ごく軽い調子で示される。
嘘だと分かっていても、勘右衛門が話さないならそれ以上は踏み込んで来ない。だが放っておくこともできず、思ったことだけは投げかけてみた。そんなところだろうか。
兵助の気遣いと距離感は本当にありがたい。しかし分かりやすく示された友愛の情と理解されている実感がこそばゆくもあり、勘右衛門は自然と緩んでしまう口元はそのままに笑みを浮かべて、心の中だけで兵助に礼を言った。
改めて筆を手に取り穂先を墨液に浸しながら、勘右衛門は度々己の思考を支配してきた ろ組の学級委員長の顔――正しくは雷蔵から借りているものだが――を思い浮かべた。
蓋をしても無駄なのであれば、兵助の言う通り腰を据えて向き合った上で折り合いをつけた方がいいのかもしれない。すべては鉢屋のせいなのだから。
筆を動かす度黒い水面に生まれる小さな軌跡を眺めながら、勘右衛門は思考の海に静かに沈んでいった。
雷蔵と話していた折、勘右衛門は己の中に何かが芽生えつつあることに気がついた。いや、本当は大分前から気づいていた。無理矢理目を逸らし続けていただけだ。
時間をくれと懇願してきた時の必死の表情や、勘右衛門を褒める淡々とした口調、彼の手が肌に残していく不思議な熱、手を眺め柔らかく光る瞳、背中に感じた重さと体温。
二人で過ごす中で感じた鉢屋のすべてが、今なお勘右衛門の中で燦然と輝いている。思い返すだけで胸で鳴る音が少し大きくなるのが分かる。
時折その存在を主張し始める、己の心臓。この胸で絶えず打ち鳴らされているはずの鼓動がふと意識に引っかかる時はいつも、何らかの形で鉢屋が関わっていた。
勘右衛門の中の彼の印象は、この数ヶ月で大きく変わった。一応勘右衛門も、鉢屋には以前から一目置いてはいた。雷蔵との関係が気に食わないことが事実でも、いつも飄々としていて己の一枚も二枚も上手をいく彼に、尊敬に近い感情をも持っていたのだ。実習中などに垣間見た割り切った考え方や判断力も含めて、大人なやつだという印象があった。
だがその実態は、かなりの甘ったれだった。迷い犬のように哀れを誘って勘右衛門を懐柔し、猫のように擦り寄り甘えてくる。当初は戸惑いが大きかった勘右衛門も、気が付けばそんな鉢屋を可愛いと、愛おしいと思うようになっていた。
そんな気持ちが生まれ出る、知らず知らずのうちにこの胸で育っていた感情は一体何なのか。
至極単純なことだ。勘右衛門は鉢屋に、慕情を抱いていたのである。共に過ごす内に完全に絆されてしまっていたのだ。いや、もしかしたらあの蒸し暑い図書室の時点で、既に惹き込まれてしまっていたのかもしれない。
当初は、大嫌いだったはずの彼を友人として好意的に受け入れられるようになったのだ、と思っていた。そうであったなら問題はなかった。だがこの感情は、兵助に感じる優しい気持ちとも、雷蔵に向ける温かい思いとも違うものだ。
共にいれば心が安らぎ幸せな気持ちになる。一方で、胸がぎゅうと締め付けられて居てもたってもいられなくなる瞬間がある。この鮮烈で矛盾した感情こそ多分、恋なのだ。
勘右衛門がこの感情の正体にすぐ辿り着けずにいたのには、いくつかの理由が思い浮かぶ。雷蔵への気持ちは実際は恋情ではなかったわけだが、鉢屋には既にそうと認識されており自分でも認めてしまっていたため、決まりが悪かったこと。大嫌いだと豪語していた手前、意地や矜持が邪魔をしていたこともあっただろう。
だが、薄々気づいていながら頑なに認識しないように振る舞っていた最大の理由は、以前聞いた鉢屋の言葉を、無意識のふりをしつつ大いに意識していたからだ。
『だから勘右衛門には、これからも雷蔵を好きで、私を嫌いでいて欲しい。雷蔵以外の人間を、――勘右衛門を好きだと思える私でいたいから』
強いて吐露させた鉢屋の想いと願いが、勘右衛門の脳裏にこだまする。
鉢屋は、勘右衛門が雷蔵を好きでいること、鉢屋を嫌いでいることを強く望んでいる。彼が心を許し甘えてきていたのは、勘右衛門が〈鉢屋が嫌い〉という鉢屋と共通の価値観を持っていたからに過ぎない。異なる価値観の持ち主になったと知られてしまったら、躊躇うことなく彼の心から締め出されてしまうだろう。
彼に恋情を抱いてしまった、今の勘右衛門ではだめなのだ。
認識してしまったら、この関係は壊れてしまう。それを、どこかで分かっていた。だから自分の感情を誤魔化して、胸の奥に固く封じて見ないふりをしてきたのだ。
鉢屋といる時間はとても楽で、最近では幸福感さえ覚えていた。彼に心を許された今の立場を、共に過ごす幸せな時間を、手放したくないと思うほどに。
そのためにはどうしたらいいか? 簡単なことだ、何も変えなければいいのである。
勘右衛門が己の感情を自覚してしまった以外に、変化したことはない。だから恋情などなかったことにして、これまでどおりただ共にいればいいのである。それだけで互いの意に副う関係のままでいられる。
自身の感情と向き合い、今後の行動指針を定めた勘右衛門は思わず安堵の息をついた。
だが同時に、その胸中には隙間風が吹き込んでくるような心許なく物寂しい感覚が生まれていた。――本当に、それでいいのか? 頭の中の自分が問いかけてくる。
「何を悩んでるのかは知らないけど、」
勘右衛門が内なる己の問いかけを黙殺し、物寂しい感覚と折り合いをつけようとしていた、その時。躊躇いがちに紡がれた言の葉が耳に届いた。
急速に現実へと引き戻された勘右衛門は、いつの間にか伏せていた顔を勢いよく起こした。
声の主は相変わらず文机に向かっていた。ただし彼の手にした筆の先もまた、勘右衛門のそれと同様、傍らの硯に溜められた漆黒の液体に沈められたままである。課題の回答欄も依然として六問目以降が空白のままだ。
不器用な親友に、失われていた心の温度がわずかに戻る。
「勘右衛門は、自分の気持ちをもっと大切にした方がいいと俺は思うよ」
続けてゆったりとした口調で静かに紡がれた言葉はまるで、勘右衛門の考えを見透かしているかのようだった。勘右衛門は驚いて言葉を失ったが、兵助はさらに言葉を続ける。
「無理でも話せ、なんて言わないよ。勘右衛門はいつだって誰にも頼ろうとしないし、知らない内に自分で解決しちゃってるんだもんな。本当、できの悪い豆腐みたいに水くさいんだから」
豆腐にたとえて非難され、勘右衛門は思わず苦く笑った。兵助らしいと言えばらしいが、そういうところは正直言って面倒くさい。
だが彼の友愛に裏打ちされた言動や心遣いが、勘右衛門の心に蝋燭のような小さな明かりをポッと灯してくれる。
「他人を優先してばかりで、すぐ自分の気持ちを蔑ろにする。そんなお人好しなところも好きだけど、俺は無理をしてすり減ってく勘右衛門は見たくない」
淡々と紡がれる柔らかく温もりを宿した言葉が、勘右衛門の凍えた心に染みていく。その穏やかで優しい響きに、今度は胸が詰まって言葉が出てこなかった。
勘右衛門は鼻の奥にわずかに生じた痛みを、すんと小さな音を鳴らして誤魔化した。
「俺にできることがあればいつでも力になるから言ってくれ。……あとこれだけは言わせて。自由気ままで伸び伸びしてる勘右衛門が一番らしくて、俺は好きだよ」
最後の一言が、勘右衛門の胸に強く響いた。兵助にそこまで言われては、自分も腹を括るしかない。
雷蔵と話していた時、勘右衛門は自覚しかけた感情に咄嗟に蓋をした。だが蓋をしても意味などなかった。むしろ蓋をしたが故に生まれた靄がわずかな隙間から漏れ出でて、終いには頭を埋め尽くしてしまっていたのだ。結果兵助に心配をかけてしまい、勘右衛門は蓋を開け己の感情と向き合い直すこととなったのだ。自覚した感情を今一度殺したとて、同じ末路を辿ることになるだろうことは容易に想像がつく。
己の心を偽り続けるのはつらいことだ。十四年生きてきて初めて抱いたこの強烈な感情を、誰にも悟られることのないよう殺し続けるなど、まず不可能だろう。此度のように綻びが生じ、露見してしまう日がいつか必ずやって来る。
だが下手に隠したりせず正直に打ち明けてしまえば、憂うことはなくなる。今後のことを思えば、それが正しい選択だと思えた。
自分の気持ちは明確になり、現状維持の選択肢は捨てた。ではその上で具体的にどのように動いて行こうか思案する。
勘右衛門は、自分が利己的な人間であることを知っている。兵助はお人好しだというが、実際はそんな好い人間ではない。己の利益となるよう行動するのが最も悔いが残りにくく能率もいいが故に、感情を後回しにしているだけだ。
だからこの感情に関しても己の判断基準に従い、己が希望を叶えるられる行動を選択することに決めた。
鉢屋に関して、勘右衛門が叶えたいことは何か。浮かんだのは、自分に向けられた感情について吐露させた時に鉢屋が見せた、恐ろしいまでに凪いだ表情だった。何の感慨もなく彼自身をくびり殺してしまいそうな、冷ややかで虚ろな能面のような顔――。
彼がそんな恐ろしい表情をすることが、なくなればいい。そう思った。
勘右衛門が鉢屋に惚れたのは、彼が雷蔵を模しているからではない。勘右衛門が目の当たりにしてきた鉢屋は、雷蔵のまがい者でも、誰でもない空っぽな器でもない。自分の輪郭を探し求める不安定で甘ったれな、紛れもない〈鉢屋三郎〉その人だった。そんな彼を愛おしく想ったのだ。
だが鉢屋は、自身を嫌悪しているとごく当たり前のように言い放った。殺意にも似た冷ややかな空気を纏わせて。それが恐ろしく、そして悲しかった。
勘右衛門には、いや彼のまわりにいる人たちには、鉢屋が鉢屋であることに意味があるのだと思っているというのに。そんな当たり前のことを、彼は理解できていないのだ。
彼には、互いの手のことを話していた時、賛辞を得意げに受け容れてくれたように、胸を張って生きていって欲しい。自分を魅了した鉢屋三郎という男を、自ら殺してしまわないで欲しい。鉢屋は鉢屋でしかなく、他の誰にもなれやしないし、なるべきではない。それが勘右衛門の、――雷蔵や皆の望んでいることなのだと。
それを理解できるようになって欲しいと思った。
鉢屋は今、無自覚ながら自分を見失うことを恐れている。つまり彼自身も本当は、自己の消失など願ってはいないのだ。ならば彼が自覚していない心境の変化を受け容れさせることができれば、『自分は己を消したいのだ』と頑なに信じ込んでいる鉢屋の目も覚めるだろう。自分自身の価値を認めることができれば、あの恐ろしい顔をすることもなくなるだろうと思われた。
彼に自覚を促す最も確実で有効な手段は、ただ事実を突きつけることだろう。勘右衛門に依存している現状こそが鉢屋の心的変化を如実に物語っているのだから。勘右衛門がそうだったように気づかないふりをしているのか、本当に自覚がないのかは分からない。だが、心を許した相手からの痛烈な張り手を食らえば、頑固な鉢屋も思い知るに違いない。
事実を突きつける。それは鉢屋が抱いている勘右衛門への感情が恋ではないと教えることだ。当然、今後鉢屋が逢瀬を乞うて来ることもなくなるだろう。心満たされる幸福な時間は失われ、ようやく認めることができたこの想いも行き場を失うことになる。
ならばどこにも行けなくなる前に、彼に伝えてしまおうと考える。
真実を言えば勘右衛門には、鉢屋に自身の価値を認めさせることよりもずっと強く、叶えたいと願っていることがある。想いを伝えてなお鉢屋に心許され甘えられる立場を維持することと、この先も彼と一緒にいられること。それが利己的な己の本当の願いだった。
だがそれらは、勘右衛門にどうこうできることではない。決めるのは鉢屋だ。彼の望む人間でなくなってしまったことを知ってなお、勘右衛門と共にいたいと彼が思ってくれるかどうかにかかっている。
しかし残念なことだが、変わってしまった自分を彼が受け容れてくれる可能性はほぼゼロだと、勘右衛門には分かっていた。
鉢屋の中にある自分への好意は、勘右衛門の中からは既に失われてしまった共通の価値観によってのみ、生じている。そんなものが恋愛感情に育つなどまずあり得ない。
そもそも勘右衛門は鉢屋と同じ男である。勘右衛門は絆されてしまったわけだが、男色家でもない、ただ依存しているだけの彼が、同性に恋愛感情を抱くはずもない。
十中八九、勘右衛門は拒絶されてしまうのだろう。それが分かっていても、己の気持ちに嘘はつかないと、鉢屋に打ち明けると決心した勘右衛門には、ただ素直に己の感情を彼に伝える以外の選択肢はそもそもないのだった。
想いを伝えたら、きっと彼は裏切られたと思うのだろう。嫌いのままでいて欲しいと言ったのに、と。そして勘右衛門に心を閉ざし去っていってしまうのだ。
つまり事実を突きつけなかったとしても、想いを伝えることが決まっている時点で迎える結末は同じなのだ。勘右衛門がこの先も鉢屋と親しい関係でいられる未来は存在しない。
どうせ壊れる運命だったのだ。彼が長年足を取られていたのだろう暗闇から抜け出す助けとなるのなら本望だと言えた。
それでも勘右衛門は、一縷の期待を抱かずにはいられなかった。脳裏を、自分の手を撫でていた時の鉢屋の至極明るい顔がよぎる。
ただ依存しているだけだというのに、あんなにも幸福そうに同性の手に触れることがあるだろうか。あり得ないと否定こそしたが、勘右衛門が絆されたように、共に過ごした時間の中で、勘右衛門に対する恋情がわずかにでも、彼の中にも育ってくれていれば、あるいは――……。
勘右衛門は祈るように天を仰いだ。