あえかな器 //落乱-鉢尾小説 万年時計のまわる音

五、

眼前の皿に盛られた半透明の菓子、その一切れに黒文字を突き立てそっと持ち上げた。目の高さに翳せば、まるで陽光を弾く川面のように煌めく。
美しいそれは口に含むとすぐに蕩けて、程よい甘みが口中に広がっていく。同時に鼻腔をくすぐるきな粉の香ばしい香りに、三郎は満足な気分で息をついた。

本日のおやつは蕨餅わらびもちである。学園一の美食家グルメ福富しんべヱから聞き出した店で買い込んだそれは、まさに絶品と言える代物だった。堺の大貿易商が贔屓にしている店は質が違う。
値段はまったく可愛くなかったが、これだけ美味しいなら仕方がない。また幸せそうに頬張る勘右衛門を眺めこの美味しさを共有する楽しい時間を思えば、安いものと思えた。

だがしかし。三郎は再び傍らの勘右衛門を横目で窺った。
いつも大きな瞳をきらきら輝かせ嬉しそうに舌鼓を打ってくれる勘右衛門は今、菓子の質とは釣り合わない反応の薄さを見せていた。ぼんやりとしたまま至高の蕨餅を口に運び、何度か咀嚼して呑み込む。その間もほぼ無表情で、己が何を食べているのか認識しているかどうかさえ危ぶまれるほどだ。
三郎は勘右衛門の様子を盗み見しながら、舌の上で蕩けて消えつつある蕨餅と共に、期待していた反応が得られなかった不満を呑み込んだ。

本日も三郎は勘右衛門と二人、委員会室でのんびり過ごしていた。恒例のおやつタイムまで勘右衛門は読書を楽しんでいて、三郎はそんな彼の髪を編んでは解き、解いては編んでを繰り返していた。彼の独特な風合いの髪は触り心地が良く、うどんのような弾力のためか様々な髪型を試すのも面白くてまったく飽きない。
ここ最近では気の向くまま断りも入れずに、彼の背後に陣取り髪を弄っていることもしばしばだ。その度に勘右衛門は必ず『気が散る』と一言文句をつけてはくるが、それ以上はとやかく言わず好きにさせてくれていた。
明確に拒絶されないのをいいことに、思うまま弄り続けているのである。その間ずっと彼が居心地悪そうにしているのも含め、三郎はその時間をいたく気に入っていた。

だが本日の勘右衛門はなんだかおかしかった。纏う空気がどことなく硬く、気もそぞろというか、そわそわとして落ち着かないように見えるのだ。
確かに気が散るとは言っていたが、いつもの居心地悪そうな感じとは様子が異なっている。そういえば今日はお決まりの文句も言われていない。
一体どうしたのだろうか。三郎は自分の分の蕨餅をすべて平らげ、勘右衛門が淹れてくれた茶に口をつけながら様子を窺う。

丁度その時、同様に茶を啜っていた彼がおもむろに茶碗を置いた。わざわざ膝を揃え体ごとこちらに向き直ると、やや緊張した面持ちで口を開く。

「――あのさあ鉢屋、ちょっと話があるんだけど」

三郎は瞬いた。そんな改まった態度でする話とは一体なんだろうか。少々思案するも何も考えつかず、彼に釣られるように若干の緊張を覚えた。
目だけで続きを促せば、勘右衛門は唇を軽く舐め逡巡するように口をもごもごと動かした。その間三郎の目は彼の口元、口唇の一連の動きに吸い寄せられていた。

「鉢屋って、俺のことが好きなんだよな」
「……そうだな。それがどうかしたのか?」

意を決した様子の彼に投げかけられたのは、想定の斜め上をいく質問だった。いや質問というより、確認するような口ぶりである。
言葉を紡ぐ彼の口唇をぼんやり眺めていた三郎は、視線を引き剥がしつつ時間差で聞き返した。彼の瞳に視線を戻せば、何故か挑戦的な光を宿していた黒き双眸に射貫かれる。

「俺のどこが好きなのか、言ってみろよ」
「――、急になんだよ。面倒くさい女みたいなこと言い出して……」

脈絡のなさに面くらった三郎は、勘右衛門を揶揄やゆしながらその要求を笑い飛ばそうとした。だが対峙した彼の鋭い眼差しに、浮かべかけた嘲笑は瞬時に引っ込んでしまう。

「いいから真面目に答えろ」

彼の表情は真剣そのものだ。問われた内容とは不釣り合いな迫力に気圧され、三郎は即座に答えることができなかった。何故か回転が鈍くなっている己の頭脳を叱咤し、彼の求めに従おうと思案を巡らせる。

「……だから、雷蔵を好きで私を嫌いなところが、」
「それ、人を好きになる理由としておかしいだろ。自分でも分かってるんじゃないのか?」

周回遅れで告げた以前と変わらぬ答えはしかし、そのすべてを言い終える前に勘右衛門によって強引に遮られた。要求しておいて口を挟んだ挙げ句、否定的な言葉を浴びせてきた彼に、頭が働いていない三郎もさすがに苛立ちを覚えた。

「――どういう意味だ?」

片眉を跳ね上げて端的に疑問を返す。すると勘右衛門は、やはり真顔のまま口を開いた。

「鉢屋が言う俺の好きなところって『俺がお前らをどう捉えてるか』てとこしか無いじゃん。俺の個としての部分は何もない」
「……何が言いたい」

批判的に聞こえる言葉に、苛立ちが増していく。不愉快な言動を重ねる勘右衛門を黙らせたくて、三郎はあからさまに剣呑な空気を漂わせ彼を睨めつけた。
しかしこちらを見つめる彼の瞳は揺らがない。強い意志を秘めて真っ直ぐに三郎を射貫いたまま、勘右衛門は深く息を吸い込んだ。

「分かんないなら教えてやるよ。お前は恋なんかしてない。俺に依存してるだけだってな」

「……な、」

「鉢屋さあ、皆が変装見破れなくなってきて怖くなったんだろ。自分が消えちゃいそうでさ。そんな時に雷蔵を間違えない俺に気がついて、自分を見つけて貰ったみたいで安心した。だから俺に固執してる。つまり、お前が好きなのは『鉢屋を見つけられる』ことであって、俺自身じゃない。そんなの、恋情なんかなわけないだろ!」

口を挟む隙もなく勢いよく捲し立て、急激に感情の温度を上げていく勘右衛門に三郎は狼狽した。
時間差で彼の言が脳に浸透する度に、言い返したい欲求に駆られる。だが具体的な反論は何も思い浮かばず、やむなく口を閉ざすことを繰り返した。
降り積もる欲求不満が、身体の奥から沸々と湧き上がってくる苛立ちに火を点ける。脳みそがぐらぐらと煮えたぎるような感覚に陥り、目の前が赤く明滅した。

「誰が何を怖がってるって? 私は変装名人だぞ、己など要らない」

急騰した怒りを意識的に落ち着けようとしていたはずが、気がつけば口から勝手に挑戦的な言葉が飛び出していた。
その時、先ほどはどれほど睨めつけても動じなかった彼が、その瞳が一瞬だけ怯えたように揺らいだ。だが三郎には彼が何に怯んだのか分からない。
彼が揺らぎを見せたのはほんの一瞬で、三郎はその理由を探る隙も得られないまま、再び強い意志を宿した彼の瞳に射すくめられた。

「なんで自分のことになると、そう頑迷かな? 自分でもよく分かってないって言ってただろ。教えてやってるんだから、きちんと向き合えよ。そして認めろ。お前は〈鉢屋三郎〉でいたいんだってな!」

「勝手に決めつけるな。勘右衛門は私の一体何を知ってるって言うんだ? 誰にでもなれるから変装名人なんだ、空っぽの器であることに意味がある。『鉢屋三郎であること』など望んでない」

「鉢屋三郎という軸があり、その上で別人になりすますから変装名人なんだろ。軸がないんじゃ人形と同じじゃないか。ただの空っぽの器に価値なんてない。目を覚ませよ!」

『価値なんてない』
その一言が、鋭利な刃のように胸に突き刺さった。覚えた痛みの大きさに息が詰まる。

あの蒸し暑い図書室でも、勘右衛門は暴言を吐き己を否定した。だが三郎は、傷つくことも憤慨することもなかった。むしろとても明るい気持ちにさせられていたのだ。
しかし今の彼の言葉には、息もできなくなるほどの痛みを感じている。〈鉢屋三郎〉に価値がないことなど、分かりきっているというのに。彼の放った二度の暴言の一体何が違ったのか、三郎には分からなかった。意味などないと知りながら痛む胸を庇うように押さえる。

背中を丸め胸を押さえた三郎の耳に、肺から押し出されるような深いため息が届く。

「空っぽな人間なんていないよ。鉢屋のお父上だって自己を持ってるんじゃないのか? 自己を持たずに生きるなんて天才でも無理だ。だから鉢屋を、……殺しちゃわないでくれよ」

先ほどまでの強い語調とは正反対の、ごく柔らかい調子で言い諭された。慈愛すら感じられる言の葉に誘われるように顔を上げると、眉尻を下げた勘右衛門が不思議な色を宿した柔い瞳でこちらを見つめている。その優しい瞳に、たった今貫かれた胸の痛みが少しだけ和らいだような気がした。
少し悲しげにも見える複雑な彼の表情に困惑を覚えつつも目を奪われる。

確かに、三郎の親類も皆それぞれ己を持って生きている。勘右衛門の指摘は的を射ているように思えた。
しかし、雷蔵以外の誰からも受け容れられては来なかった〈鉢屋三郎〉を選ぶことに意義はない。せっかく持つなら、もっと価値のある自己を持った方がいいに決まっている。

「……そうだな。父上も自己を持ってるし、軸を持たないのは確かに無理な気もする。だから私は雷蔵になりたいと思ってるんだ。……そうなったら、勘右衛門も嬉しいだろ?」

元が無価値の器だったとしても、中身が愛される者に変わったなら、じぶんにも価値が生まれるのではないか。そうすれば誰も、――勘右衛門も離れていかないでいてくれるだろう?
三郎は縋るような気持ちで尋ねた。

だが勘右衛門の黒曜石が如き瞳は、今度は微かにも揺れはしなかった。

「そんなの、俺は全然嬉しくない。誰も望んでないし、ただの雷蔵の虚像に価値なんかないよ」

一瞬、何を言われたのか分からなかった。

『価値なんかない』
二度目のその言葉は、一層深く三郎の胸を抉った。目の前が真っ暗になり、足下が崩れて底のない沼に沈んでいくかのような恐怖に囚われる。

「……あのな鉢屋。俺、――」
「雷蔵が好きで私を嫌っているお前なら、分かってくれると思ってたのに。……勘右衛門のことは好きでいたかったのに。やっぱりお前も、分かってはくれないんだな」

勘右衛門の言葉でこれ以上傷を負いたくない一心で、三郎は口から出るに任せて捨て台詞めいた言葉を吐いた。それは曖昧な表現でただ拒絶の意思だけを内包していた。

一瞬の沈黙。
三郎は働きの鈍い頭で自身の言動を振り返り、混乱すると同時に呆然とした。思考がまったくついてこない。だが口を半開きにしたまま停止していた彼の唇がぴくりと動いたのを目にした途端、三郎の身体は踵を返し戸口へと向かっていた。
――どうしてこうなった。己の言動も理解できていなかったが、ただ勘右衛門がこれ以上何かを言う前に、この場から逃げ出したかった。だが己が動揺していることを悟られるのも許せず、ゆっくりとした動作を意識する。幸い戸を閉めるまでの間に、勘右衛門の声が耳に届くことはなかった。

人気のない場所へ行こうと庭へ下りて歩き出す。なんとか堪えようとするも、目の前が歪んでいくのをどうすることもできない。足の運びも次第に速まって、最終的に全力疾走になる。

虚勢を張るので精一杯だった三郎は、勘右衛門が苦みを帯びた微笑を浮かべていたことには気が付かなかった。

***

その日の三郎のランチの皿には、当初は唐揚げと焼き魚が乗っていたはずだった。例に漏れず本日も迷いまくっていた雷蔵と、おかずを半分交換したためである。
だが焼き魚の乗っていた辺りには現在、米粒大の謎の物体が山を成していた。混ぜご飯に向いているそれはしかし鮭ではないし、その目的で解されたわけでもない。見るも無惨な状態である。
美味しい焼き魚をそんな残酷な目に遭わせたのは、三郎の心中に鬱積した気分の吐け口となってしまったからに他ならない。発端は一月ほど前に遡る。

週末の時間をいつものように勘右衛門と二人過ごしていた三郎は、その日突然彼から精神的苦痛を与えられた。三郎が彼に向けている感情は、自己を見失うことを恐れた己の依存心によるものだと指摘されたのである。
青天の霹靂へきれきだった。なにより〈鉢屋三郎〉に価値がないと言われたことに傷ついている己に混乱した。自身に価値がないなど分かりきっていたはずだったのに、いまさらどうして傷を負っているのか分からなかったのだ。

あの時は動揺のあまり、勘右衛門に酷い言葉を投げつけて逃げ出してしまった。しかし時が経つにつれて、三郎はじわじわと罪悪感に侵されつつあった。勘右衛門の指摘はすべて正しかったのではないか、としか思えなかったからだ。
図星でないのなら、冷静な頭で考えれば当然、勘右衛門の主張に対する反論が構築できて然るべきである。だが今なお返せる言葉は何一つ見つかっていなかった。
だとすれば、三郎は癇癪を起こした子供のように、湧き上がった激情をわけも分からず勘右衛門にぶつけただけだった、ということになる。常識的に考えれば、都合の悪いことに耳を貸さずに拒絶の言葉を吐くなどと幼稚な態度を取ったことを謝るべきである。

しかしそんな自覚が薄ら芽生えつつある現状においても、三郎はどうしても勘右衛門の指摘に正面切って向き合うことができずにいた。何故かは分からないがあの時のことを思い出すとやはり、腹が立って仕様がなかった。
勘右衛門が至って普段どおり――を装っていることも一因にあっただろう。三郎が吐いた言葉など彼にとってはなかったことにしてしまえるほどどうでもいいことなのかもしれないと思うと、やるせない気分になるのだ。
結果三郎は、ただ鬱々として日々を過ごすしかなかったのである。

「おいおい、その魚どこまで解すつもりだよ三郎。おばちゃんに怒られるぞ。……なんか最近変っつーか、元気ないよな。どうしたんだよ?」
「そういえばここのところ勘右衛門と一緒じゃないんだね。最近仲良かったのに」

食の進まない三郎を見かねてか、級友二人が声をかけてきた。『ここのところ』と言う辺り、暫く観察されていたらしいことが窺える。三郎は観察されていることにも気が付かないほど悶々と塞ぎ込んでいた己に驚くと同時に、心配をかけるような振る舞いをしていたことを悔いた。

三郎は己の悩みを他人に打ち明けることに抵抗がある質だ。特に今回のことは積極的に話したい内容ではない。一方は己が長年抱え続けている鬱屈とした感情に、もう一方は彼らもよく知る級友に関わる内容だからだ。
何も語らず適当に誤魔化して済ませることは、多分難しくない。だがそれでは心配してくれている級友に申しわけないように思えた。
勘右衛門とのことを話していったら、結局自分のことにも触れなくてはならなくなる。それ以前に、彼のことを冷静に話せる自信がなかった。なんせ当時を振り返るだけで、激しい苛立ちが湧き上がってくるのだ。激昂した挙げ句、二人に八つ当たりをするような事態には絶対に陥りたくはない。

悩んだ末に三郎は、長年秘してきた自身の悩みを、そうとは分からないようにして打ち明けてみることにした。それが最も三郎の納得のいく選択肢だったのだ。

「私は今、危機に瀕しているんだ……変装名人というアイデンティティを失ってしまいそうで。登場回数が減らされて、作者に忘れ去られたらどうしよう……」
「……はぁ?」

ふざけた調子に隠して悩みを吐露すると、八左ヱ門が眉を寄せて態度悪く聞き返してきた。狙いどおり惑わされてくれた単純な八左ヱ門に安堵する。しかし思慮深く叡智に富んだ雷蔵はそう簡単にはいかなかった。彼は眉尻を釣り上げ三郎を睨めつけている。

「三郎、急にメタ発言するの辞めてくれるか? 大体、落乱はこの間完結したんだ、いまさらどうともならないよ。それはさておき、もっと分かるようにちゃんと話して」

真面目な顔で冷静に叱られ、三郎は企みが失敗に終わったことを知った。だが同時にさらりと挟まれた自分以上に問題な発言に、三郎の方がしどろもどろになってしまう。

「……雷蔵。君の方がずっとメタいし、大分ギリギリな発言だぞ……?」
「いいから。はやく」

学級委員長として一応注意したが、雷蔵はつっけんどんに続きを促してくるだけだった。本質の深刻さを察しているのか、彼は真面目な態度を貫いている。自ら茶化した三郎に、やや怒ってもいるようだ。なら先ほどの問題発言は何だったのか。三郎は愛しの相棒のことが分からなくなった。
真っ直ぐに睨めつけてくる雷蔵を前に、いよいよ逃れようがなくなった。だが自分のために真剣に怒ってくれる相棒が嬉しくもあり、三郎は彼の厚意に応えようとなんとか気持ちを切り替えて恐る恐る口を開いた。

「……私は、自分を消してしまいたい、と思っていたんだ。入学前からずっと」
「おっと、思った以上に重てぇ話だな」
「八左ヱ門、茶化さないで。……三郎、続けて」

一人取り残されていた八左ヱ門が茶化したが、雷蔵にぴしゃりと叱られ口を噤んだ。三郎は憐れな八左ヱ門を気に留めることなく、素直に雷蔵の求めに従い言葉を続ける。

「私は自分が嫌いで……雷蔵、君に出会ってからは君になりたいと願ってた。家系的に素顔を隠す必要もあったし、己を消せてこそ変装名人だ。君に倣うのは都合がよかった。……でも今、それが揺らいでいるのかもしれない……どうしたらいいのか分からないんだ」
「三郎は、僕になりたいの?」
「――ああ。そしてそれは現実になりつつあると思ってる。最近は特に、見分けがつかないとよく言われてるだろ?」

「いや、……変装を見破るのは難しいけどよ、俺は三郎と雷蔵が似てるなんて思ったことないけどな。雷蔵の顔借りてても、三郎は三郎だろ? 他のやつらも皆そう言うと思うけど」

不思議なほどに淡々と問う雷蔵に素直に答えた三郎だったが、早くも立ち直ったらしく口を挟んできた八左ヱ門の思いがけない発言に言葉を失った。〝似ていると思ったことはない〟――そんな返答が返ってくるとは夢にも思っていなかったのだ。

「おっ、やっぱりここだったか」

ちょうどその時、おあつらえ向きに級友が三人ひょっこりと顔を出した。心なしか眉の下がった困り顔で食堂に入ってくる。

「まったく、ランチ一つに悩み過ぎだろ雷蔵は! んでさぁ、ランチ中に悪いんだけど、三郎にちょっと相談があって……」

未だランチが終わっていない原因が雷蔵の迷い癖だと疑いもしない三人は、雷蔵を苦笑して弄ってから三郎に声をかけてきた。手には明日が提出期限の課題がある。どうやらつまづいてしまったために助けを求めてやって来たらしい。

「おっ、いい時に来たなお前ら! なあ、三郎と雷蔵って似てると思うか?」

しかし三郎が用件を問うより先に八左ヱ門が声をかけた。歩み寄ってきた三人は唐突な質問に顔を見合わせ、不思議なものを見るような表情で八左ヱ門、三郎、雷蔵の顔を順番に眺めて口を開いた。

「三郎と雷蔵? そんなこと思ったこともないけど」

何を馬鹿なことを聞くんだと言わんばかりの発言に、三郎は目を見開いた。そっくりだと言われると思っていたのに、三郎の想像はまたしても大いに外れていた。

「ていうか全然似てないだろ、三郎みたいな問題児が。雷蔵は最優良忍たまだぞ?」
「そんな失礼なこと考えてたの、絶対三郎だろ! 思い上がりも甚だしいぞ、雷蔵に謝れ!」

後の二人からも口々に罵られた。一人には回した腕で首を締め上げられ、もう一人には課題で頭を叩かれる。
勘違いだったことを思い知らされた三郎は、寄ってたかっての暴力に閉口しながらも胸の辺りが温かくなるような感覚を覚えていた。

そこでようやく三郎は、雷蔵とは似ていない自分に親しげに絡んでくる友がいること、似ていないと言われ喜んでいる自分がいることに気が付いた。

「だよなあ。そー、大正解。三郎が意味の分からんこと言うから意見が聞きたくて」
「確かに変姿の腕は見事だけどな~、素の三郎が雷蔵みたいになったら病気を疑うね」

八左ヱ門が三人と意気投合している間、三郎は首に回された腕もそのままに、その場にぼんやりと座っていた。嬉しくも照れくさい気持ちが胸いっぱいに広がる。
ふと視線を感じて目を向ければ、雷蔵が何かを言いたげな表情で顔を寄せて来た。三郎は彼の方に頭を傾け聴く姿勢を示す。

「僕は僕でいたいから、三郎の気持ちは分からない。だけど僕は、三郎には三郎のままでいて欲しいな。皆も同じだよ。それに、元の自分から別の人になれるから〈変装名人〉なんじゃないかと僕は思うよ」

それだけ言ってにっこりと笑いかけてくる。いつもと同じ雷蔵の優しい笑顔が、三郎の鬱々としていた心を明るく照らしてくれる。

三郎はずっと、雷蔵に倣っていたから孤独ではなくなったのだと思っていた。しかしそうではなかったらしい。いつの間にか、ありのままの〈鉢屋三郎〉として、皆に受け容れられていた。そして三郎が三郎であることを望んでいてくれている。三郎のままでいて欲しい――そう言って貰えることが、心の底から嬉しいと思えた。

同時に脳裏に浮かんだのは、鬱々とした心境の原因である丸顔だった。
勘右衛門の指摘は正しかった。本当は〈鉢屋三郎〉でいたいと、そのままの己を受け容れて欲しいと願っていた。故に確実に己を見つけてくれる勘右衛門に固執していたのだ。

だが依存だったと分かってもなお、指摘の正しさを認めて素直に彼に謝ることはやはりできそうになかった。依存だと決めつけられたあの瞬間を思い返すと、どうしてもあの時の苛立ちが蘇ってきて消えなかった。自分は自分の非を認められないような、どうしようもない人間ではないはずだと思うのだが。それがどうしてなのか、三郎には分からなかった。

「はっ!? 危ねえ本題忘れるところだった! なあ三郎、この課題の問題なんだけど……」

いつの間にか雑談に発展していたらしい級友三人は、急に用件を思い出したらしく再び三郎に声をかけてきた。

三郎は自己分析は一旦おいておくことにし、行儀悪く皿に直接口をつけて焼き魚だったものを口に掻き込んだ。その上で箸を置き、級友を助けてやるべく課題に目を通し始めた。

***

長い悪夢から目覚めることができた長いランチ後の授業は、担当教師が学園長先生の突然の思いつきで外出されることとなったため急遽自習になった。
級友たちは課題に取り組んだり、授業の予習や復習をしたりと各自思い思いに過ごしている。学級委員長である三郎は特に問題ないと見てようやく、自身も予習に取りかかろうと首を巡らせた。

そこでふと、窓の外に見慣れた瑠璃の装束が居るのに気が付いた。
どうやら五年い組の午後の授業は剣術であるらしい。奥に戸部先生の姿が見える。生徒たちは適当な間隔を開けて校庭に散らばり、二人一組で各々木刀を交えている。

その中で、三郎はすぐに勘右衛門を見つけた。すっと伸びた背中、機敏な動作。本人の動きを追いかけるようになびく、独特の癖のある黒い髪。少しの無駄もないその様は、い組の生徒の中でも際だっていた。
真剣な眼差しは刃のように鋭く光り、幼い印象を与える顔の造形とのアンバランスな印象がなんとも言えず三郎の目を惹きつける。

勘右衛門はい組の級長を務めるだけあって優秀な忍たまである。しかしそれは、彼が人並み以上に日々努力を惜しまず鍛錬してきているからに他ならない。
そんな当たり前のことに三郎が気が付いたのはつい最近、彼に共に居る時間を作ってもらうようになってからだった。

普段勘右衛門は勝ち負けにこだわりなく、のらりくらりとしている印象があった。故に三郎は、彼は生まれ持った才能を活かし鰻のように上手く立ち回っているのだろう、などと勝手な思い込みを持っていた。
しかし見る度、筆や本を持つ彼の手には傷が増えた。のらくらしているだけの人間の手に、見て分かるほど傷が短い間に増えることはない。相当厳しく自己鍛錬を積んでいるのだとしか思えず、勝手な想像で穿った見方をしていた己が恥ずかしくなった。

彼は決して努力をひけらかしたりしないし、己が実力不足に癇癪を起こしたりもしない。だから三郎は彼の努力に気がつかなかったわけだが、その謙虚な態度が美しいと思った。

校庭で授業に勤しむ勘右衛門は、相手を巧みに打ち負かすと自らが転がした級友に笑顔で手を差し伸べた。それに相手も笑顔で手を伸ばし助けを得て立ち上がる。その生徒は助け起こされた手を握り何ごとかを喋ってから離れていった。
眺めていると、勘右衛門はずっとそんな調子だった。打ち負かせば助け起こし、打ち負かされれば笑顔で手を差し出して助け起こされる。そんな勘右衛門に彼の級友たちは、頭をぐしゃぐしゃとかき回したり肩を抱いたり肘で小突いたりと、様々な形で触れ合ってから離れていく。

三郎は勘右衛門が誰かに笑顔を向ける度、また誰かが彼に触れる度に苛々した。週末毎に触れ合ってきた勘右衛門と、三郎はもう一月ほど触れ合えていない。他の い組の生徒たちと同じように勘右衛門の近くに行きたい、彼と触れ合いたい。そんな欲求がわき上がってくる。

中でも特に強い苛立ちを覚えたのは、相手が兵助の時だった。
二人の実力差はそれほど大きくないようで、今回勘右衛門は惜しくも負かされてしまった。すると兵助もやはり笑顔で、ごく自然に手を差し出した。だがその手を掴んだ勘右衛門が逆に引っ張ったため、兵助は彼の上に倒れ込んだ。そのまま地面の上でもつれ合い、ぎゃあぎゃあとじゃれ合っている。その屈託のない、明らかに親しげなやりとりが最も気に入らなかった。

勘右衛門は誰に対しても態度が柔らかい。それは三郎にも同じだった。
なんとなくそうしたくなって背中に寄りかかってみた時も、勘右衛門は何も言わずに好きにさせてくれた。以降も遠回しかつやんわりと文句を言いはしても、甘えた態度を取る三郎を拒絶することはなかった。彼の髪を弄る時も同じである。その距離感、許されている感覚が、三郎にはなんとも言えず心地よかったのだ。
しかし彼らの様子を見ていると、三郎が特別許されている訳ではないことは嫌でもよく分かった。嫌いだと言いながら許してもらっていた程度なのだ、当然といえば当然である。逆に兵助が特別に親しく扱われているのが明らかで、それがどうにも腹立たしくてならなかった。

ふと、手に触らせてもらった時に垣間見た、勘右衛門の顔を思い出す。
彼の傷だらけの手にひたむきな努力を感じ、それを美しいと思ったが故にもっとよく見たくなった。あの時の三郎は、何が面白いのかと訊いてきた勘右衛門に思ったままを率直に告げただけだった。

しかし目線を上げた先にあった勘右衛門の表情に、三郎は釘付けになった。
彼は大きく黒い瞳をきらきらと輝かせ、頬を桃色に染めて照れと喜びと恥ずかしさがごちゃ混ぜになったみたいな顔をしていた。褒められ慣れていない低学年の後輩のような可愛らしい反応を見せた勘右衛門を思い出すだけで、じわじわと気持ちが高ぶっていく。

あの顔を、もう一度見たい。
自分の言動で、勘右衛門にあの顔をさせたい。

そう強く思った。

授業終了の鐘が鳴る。
三郎は教室内に各自解散の呼びかけをしてから、再び窓の外へと視線を戻した。戸部先生の前に整列して一礼した い組の生徒たちは、勘右衛門に一言二言かけてから散っていく。勘右衛門はそれに応じる傍ら、木刀を片付けている用具委員を手伝っていた。
木刀を抱えた忍たまと、連れだって用具倉庫へ歩き出す。それに追いついてきた兵助が、勘右衛門の抱えた木刀を半数ほど取ってその隣を歩き出した。遠目故によく見えないが、勘右衛門も兵助も級友も皆、笑っているようだ。
彼が柔らかな人柄で学級委員長として愛されているのが、見ているだけでよく分かる。

「さぶろ~、今日掃除当番――って、……なに怖い顔してんの?」

引き続き窓の外を眺めていた三郎に、のんびりと呼び掛けながら寄ってきた八左ヱ門が戸惑いの滲む声を出した。だが取り繕うのも面倒に思うほど苛々が蓄積しつつあった三郎は、八左ヱ門ならいいかとも思って い組、というより勘右衛門に視点を固定したまま口を開いた。

「い組の連中って勘右衛門にやたら触るよな。見てたらなんか知らんが苛々してきた」

心を占めているどろどろとした感情をそのままぶちまけた三郎に、八左ヱ門はしかしいつまで経っても何も言わない。
不審に思って目をやれば、彼は驚いたように目を丸くしてこちらを凝視している。何故そんな顔で見られねばならないのかと眉を寄せれば、追ってなんとも言えない非常に微妙な顔になった。呆れた風に片眉を跳ね上げ、溜め息をつかれる。

「……それはさぁ、――恋だろ」

「は?」

八左ヱ門の態度をなんとなく腹立たしく思っていた三郎だったが、予想だにしない単語が返ってきたためつい威圧的に聞き返した。彼は未だ呆れきった表情で三郎を眺めている。

「なんか知らんがって何だよ。嫉妬なんじゃねえの? それ。だって多分俺と同じだもん」
「八左ヱ門、お前――……、好きなやつなんか、いたのか!? いっちょまえに!?」
「なんだいっちょまえにって失礼だな!? 俺だって恋の一つや二つ……、まぁ今はそれはいいわ」

三郎の正直な感想に憤慨したようだった八左ヱ門はしかし、ここで食ってかかると論点がずれると気づいたのか急に矛を収めた。先日のように煙に巻かれてくれなかった彼に、三郎は内心で舌打ちする。

「三郎、勘右衛門のこと好きだったのか」
「いや、それは違う」

ほへ~などと阿呆みたいな声をあげ、こちらをしげしげと観察しながらの彼の発言を即座に否定する。
三郎は勘右衛門に依存していただけなのだ。この苛立ちも依存心によるものなのだろうと思う。そもそもこんなに自分勝手な感情が、恋なわけがない。

「え、何で即否定? 何が違うって言うんだよ」

「――恋ってもっとこう、……明るく優しい良いものなんじゃないのか」

あっけらかんとした様子の八左ヱ門に不思議そうに尋ねられ、毒気を抜かれた三郎はやや恥じらいを覚えつつも素直に訊いてみることにした。
実のところ三郎はまだ一度も、恋というものをしたことがない。本当に恋をしているというのなら、八左ヱ門はそれを知っているはずだと思ったのだ。

「そうでもないさ。俺は割ときったねー感情だと思ってるよ。醜いし、かっこ悪い。だって誰かのことを独占したい、触りたい、自分をよく見せたいって……――強烈じゃねえ?」

真夏の太陽のように明るく裏表のない八左ヱ門は、馬鹿にした様子など微塵もなく応じた。この気っぷの良さは、彼の美点だと三郎は思う。
自分の知らないことを知った顔で語る八左ヱ門が不思議と大人びて見え、不思議な気分になる。と同時に、彼の言葉がすとんと胸に落ちてくる。

先ほど三郎は、自分ではない誰かが勘右衛門に触るのが、彼を笑顔にさせるのが気に入らなかった。勘右衛門を自分が独占したい、すべてを知りたい、触りたい――。確かに、今もそう思っている。

「でもさ。足掻いたところで、どうにもならないんだよな」

しみじみと付け加えられたこともすべて、素直に三郎の腑に落ちたのだった。
自習中に窓から い組を眺めていた時、三郎は苛々しつつも彼らを眺めることをやめられなかった。遠くで笑う勘右衛門から目を離せず、彼と笑い合う い組の連中が、兵助が妬ましくて堪らなかった。
それが何故なのかといえば、三郎にとって勘右衛門が特別な存在になっていたからだ。自分を見つけてくれるからではない。こちらに気づかない彼に、自分に気づいて欲しいとは少しも思わなかった。ただ彼の特別になりたい、自分が彼に幸せそうな顔をさせてやりたいと思った。

勘右衛門に暴言を吐いてしまった、あの時もそうだった。確かに依存していたのだとは思う。図星を指されたから反論できなかった、それは間違いなく事実だ。
だが知らず知らずの内に、彼に対する恋情もまた芽生えていたのだ。だから恋なんかじゃないと決めつけられて腹が立ち、彼の指摘を素直に受け容れることができなかった。
恋うる相手本人に否定された恋心が、反発心を引き出していたのだ。

ちゃんと、恋だった。
依存の陰に隠れてしまっていたけれど。

勘右衛門に恋をしている。それが分かったことが、なんだかとても嬉しく思えた。
だが同時に、ひどく物寂しい感覚にも襲われていた。三郎が勘右衛門を好きでも、彼は雷蔵が好きなのだ。見失いそうだった三郎を見つけてくれて、甘えることを許し受け容れてくれて、向き合えずにいた己の変化を指摘し怒ってくれて、三郎を殺さないでと言ってくれたのに。足掻いたところで、どうにもならない。

勘右衛門は、三郎のことを恋愛感情で好きになってはくれないのだ。

「そうだな……」

八左ヱ門の言葉に、三郎は虚しい気持ちを呑み込むようにしながら、言葉少なに同意を示した。
そして用具倉庫へと去っていく勘右衛門の後ろ髪を眺めながら、既に苦みが生じている自分の初恋を、胸の奥深くへとしまい込んだ。

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