あえかな器 //落乱-鉢尾小説 万年時計のまわる音

六、

「「それでは鉢屋先輩、尾浜先輩。お先に失礼します」」
「ああ、ご苦労さん」
「お疲れさま~」

一足先に自身に割り振られた仕事を終えた一年生の二人が、辞去の挨拶と共に頭を下げた。三郎が彼らを労うと、続いて勘右衛門がにこやかに手を振る。先輩の言葉に笑顔で応じた後輩たちは仲良く委員会室を出て行く。三郎は我らが委員会の誇る礼儀正しいよい子たちを、微笑ましい思いで見送った。

上級生二人だけが残った委員会室は、心なしか普段よりも静かな気がした。秋の終わりも近づいた冷たい空気に、漂う違和感が一層の寒々しさをもたらしているように思える。
三郎は、定位置に座っている勘右衛門をそっと見やった。黙々と筆を動かしている彼はどことなくよそよそしい空気を纏っているように見える。
勘右衛門はこんなにも取っ付きにくそうな雰囲気の男だっただろうか。三郎にとっての彼が少し面倒な同輩程度の認識でしかなかったのはたった数ヶ月前のことである。だがもうその頃のことなどまったく思い出すことはできなかった。

勘右衛門とはここ最近で大分親しくなっていたはずだった。だが今二人を取り巻く空気は、白々しいほど他人行儀である。原因は無論、先日の一件だろう。
委員会に出席して仕事をしてはいるが、無表情の勘右衛門の心中はまったく分からない。彼が纏う素気ない空気が無性に寂しくて、三郎はぎゅっと唇を引き結んだ。

このままこれまでの時間などなかったことに、以前のような薄っぺらな関係に戻ってしまうのだろうか。それは嫌だと思ったが、勘右衛門にとってはその方がいいのかもしれない、という思いが頭をよぎる。
三郎が求めたから、勘右衛門は時間を割いてくれていたのだ。たとえ嫌いなやつが相手でも、懇願されたら断れない。巻き込まれ体質と言われるほどのお人好しだ。
三郎にとっても、元の関係に戻った方が都合がいいだろう点もある。友情を修復したとて、自覚した恋心を抱えたまま勘右衛門と友人関係を続けていくのは、つらいことだろうと思うのだ。希薄な繋がりに戻れば、不毛な恋しさも風化して消えてくれるかもしれない。
だがそれでも、一度味わった居心地の良い関係を、二人で過ごしていたあの和やかな時間を、諦めることはやはりできなかった。

「――勘右衛門」
「なに」

意を決して名を呼ぶと、ひどく素っ気ない返答があった。勘右衛門は筆を執る手を止めることも、書面から顔を上げることもしてくれない。
誠意を示し彼の関心を引こうと傍らに移動して膝を揃えて座わってみたが、勘右衛門はそれでもこちらを顧みてはくれなかった。怒っているのか、はたまた三郎に対する関心すら失ってしまったのか。

いつもどおりを装っている勘右衛門に甘え、今日まで何もして来なかったのだ。怒るのも当然だろう。どちらにせよ、悪いのは三郎なので仕方がない。
そもそもが勘右衛門に許されたい、これからも親しい関係でいたいという三郎のエゴだ。どう受け取るかは彼が決めることであり、三郎は自分のしたいようにするだけだ。

勘右衛門に拒絶される未来の想像が脳裏をよぎるが、三郎は恐怖心を抑え込み口を開く。

「――この間は、すまなかった」

率直に謝罪をした三郎に、勘右衛門がようやく筆を止めて顔をこちらに向けてくれた。その表情からは未だ感情を読み取ることはできないが、やや怪訝そうな様子は窺える。三郎は意識的に深く息を吸って怯え震える心を宥めてから、静かに続きを切り出した。

「私のことを思って言ってくれたんだよな。なのに、ひどい態度を取って悪かった。素直に認められなかったんだ、……図星だったから。勘右衛門の言うとおり、私はずっと自分が嫌いで、雷蔵になりたいと思ってたんだ。その癖自己が消えてしまうのを怖がってもいて、誰かに見つけて欲しかった。それで、お前に依存してしまってたんだ」

謝罪に続けて、言い訳にしか聞こえない独白を紡いでいく。ゆっくりとした語調で話していたが、勘右衛門は口を挟んでは来なかった。彼がどんな態度を取るか見ていられず顔を伏せてしまっていた三郎は、一旦言葉を切り勘右衛門の反応を窺う。だが彼はなおも沈黙している。
自分の情けない言い訳を聞いてくれているのだ。そう受け止めた三郎は、言いたいことをすべて言ってしまおうと独白を再開する。

「でも分かったんだ。自分で認められずとも認めてくれる友がいること、私が私であることを喜んでくれる人がいると。だから私は、皆が認めてくれる〈鉢屋三郎〉を軸として誰かに化ける変装名人になろうと思う。そしてこれからはもっと自分を大切にしようと思ってる」

友人が、――勘右衛門が。三郎だから価値があるのだと、……殺すなと、言ってくれたから。
伏せてしまっていた顔を、思い切って上げる。勘右衛門は瞠目し呆然と三郎を見つめていた。三郎は一瞬だけ躊躇ったがその瞳を真正面から見つめ返し、自分が一番求めるものを、それを与えられる唯一の存在に訴えるべく、今一度息を深く吸い込んだ。

「だから、勘右衛門も私のこと、――好きになってほしい」

恋情ではないのだとしても。勘右衛門から向けられる好意と言える感情が、温かい気持ちがどうしても欲しかった。

懇願した三郎を、勘右衛門は変わらず瞠目したまま見つめている。自分の――否、借りものである雷蔵の情けない顔が映り込んだ黒曜の瞳が、一層の水気を含んで鈍く光った。

***

「これからはもっと自分を大切にしようと思ってる。だから勘右衛門も私のこと、好きになってほしい」

真摯な瞳で告げられ、勘右衛門は己の望みが成就したことを喜び、同時に深く傷ついた。
――俺の気も知らないで。
わずかに芽生えた身勝手な被害者意識を、それが育つ前に素早く摘み取った。

鉢屋が、自分の価値に気付いてくれた。それはまだ自分で自身を誇りに思うような盤石なものではないようだが、自身をくびり殺してしまう可能性が消えただけでも大きな進歩だ。
その後押しをしたのは、間違いなくかの相棒なのだろう。勘右衛門では果たせなかったが、たどり着いてくれた結果は同じだ。喜ばしいことに変わりはない。
しかも、それを踏まえて前回決裂した勘右衛門との友情を修復したいと言うのだ。どうやら〈認めてくれる友〉の中に勘右衛門も含めてくれているらしい。
このままなかったことになってしまうのだろうなと思っていたのに、こんなに嬉しいことはない。なら一体何に傷ついているのか。

依存していただけで、恋ではなかった。鉢屋がそれを事実だと認めた。それは今彼に恋慕の情を抱いている勘右衛門にとって、分かってはいても悲しく寂しい結末だったからだ。

鉢屋に現実を突きつけたあの日、勘右衛門は想いを伝えることができなかった。告げる前に、勘右衛門を拒絶し部屋を出て行ってしまったからだ。
彼は勘右衛門の気持ちを知らない。だから『好きになって欲しい』なんて言い方を、友情の修復を求める目的で、何のてらいもなく使った。鉢屋から告げられたいと願う言葉を、それとは異なる意図だからこそあっさりと告げられた。その事実が、覚悟していた以上に深く勘右衛門の胸を抉ったのだ。
伝えていないのだから、勘右衛門の想いを彼が知るはずもないのは当然である。そもそも傷つく羽目になったのは鉢屋のせいではない。彼が自分に向けている感情が恋慕ではないと薄々気づいていたのに、恋に落ちてしまった自分が迂闊で馬鹿だっただけだ。

勘右衛門はたった今受けた深手から意識を逸らすと、鉢屋からの親愛の情に応えるべく笑顔を作った。ようやく自身に価値を見出せた彼が、再び己を見失ってしまわぬように。
そして彼が勘右衛門の存在を気に病まぬよう、友情の修復を快く受け容れるために。

「いまさら、なーに言ってんだか。馬鹿だなぁ鉢屋は。お前のことなんか結構前から普通に、好きになってたってえの! 嫌いなやつと毎週末一緒にいるほど暇じゃないし、労力割いて叱ってやるほどお人好しでもないもん、俺」

冗談っぽく笑いながら、言い回しに隠して伝え損ねた本音を告げた。『普通に』を強調することで『好き』の一言から想いが滲み出てしまわないよう己を戒める。

その言葉を用いて友情の修復を求められたことを言い訳に、既に行き場を失っていた想いを告げた。鉢屋には友愛の意味でしか受け取られなくとも、言の葉にして吐き出してしまわなければ、胸の内で燻り続ける気がしたのだ。
伝わらないことが分かっていても、秘めていた想いそのものでもあるその一語を告げるのはひどく緊張した。震えそうになる声を平坦に保つのが精一杯で、鉢屋の目を真っ直ぐに見つめることはできなかった。

だが次の瞬間、勘右衛門の目の前は瑠璃色で埋まっていた。鉢屋が突然抱きついてきたのだ。
甘ったれとはいえ、猫のような甘え方をする天邪鬼な鉢屋にしては、抱きついてくるなんて珍しい。仲直りができたことをそんなにも喜んでくれるのかと、友情であっても嬉しく思えた。

ふと、己を包む体温に懐かしさを覚える。数週間前、背中越しに感じた鉢屋の体温に今、勘右衛門は初めて包まれていた。それを嬉しいと思ってしまう反面、この身を抱きしめている彼の心には己と同じ感情はないのだという現実に、先刻抉られた胸の傷がじくじくと痛み出す。

「急になんだよ、……離せよ」

勘右衛門は顔に貼り付けたままの笑みに苦味を纏わせて、懐かしい温度を押し退けようと腕に力を込めた。しかし頬が鉢屋の胸から離れたと思った瞬間、存外強い力で再び押し付けられる。

「なんで、そんな……、どうしたらそんな顔、させずに済む?」
「え?」

自由になろうと悪戦苦闘していた勘右衛門は、押し付けられた胸から直に伝わって来た言葉に、思わず動きを止めた。そのまま何度か咀嚼してから小さく身じろぎすると、頑なに離してくれなかった腕がようやく緩み、肩口から腰の辺りへ移動する。
やっとのことで顔を上げた勘右衛門は、苦しそうに歪んだ借り物の顔にでくわした。

つまり勘右衛門はそんな顔と言われるほど、苦しげな表情をしていたのだろう。肝心なところでまたもやぼろを出してしまっていたらしいと知り、己の未熟さに歯噛みする。
自分こそ、彼にそんな顔をさせたくない。どう説明すれば鉢屋のせいで苦しそうな顔になったのではないと納得させられるだろうかと必死に思案を巡らせる。

「無理をさせてるのは私か? なら教えて欲しい。勘右衛門に苦しい思いをさせないために、私はどうすればいい?」

頭をフル回転させていた勘右衛門はしかし、続けて教えを乞うて来た鉢屋に釘付けになった。その顔は今にも泣き出しそうに歪んでいる。同時に、自分を抱きしめている腕に再び力が込められた。切なげに歪められた真摯な瞳が、勘右衛門を真っ直ぐに見つめている。

トクリ、勘右衛門の胸が小さく音を立てた。

「お前さ、――……俺のこと、好きなの?」

どうしても捨てることができなかった期待が、再び勝手に口からこぼれ落ちた。大分昔のことのように思える、あの時と同じ稚拙な問いかけ。緊張しているのだろうか、喉を出た音は思った以上にか細く、みっともないくらいに震えていた。

しかし鉢屋は、勘右衛門が問うた途端に勢いよくその身を離した。急な動きに驚いたが、目で追いかけた先でさらなる驚きに遭遇する。失敗したと言わんばかりの表情を湛えた彼の耳と首が、見る間に真っ赤に染まっていったのだ。

直球の問いかけにそんな反応をされては、もう期待を捨てることなどできるわけがない。
勘右衛門の心の臓は、加速度的にその存在を主張し始めていた。

***

「結構前から普通に、好きになってたってぇの!」

そう言って笑った勘右衛門の顔が、切なげに歪んで見える。好意を示しながら悲しげに笑う彼に、三郎は胸が締め付けられるような苦しみを覚えた。
三郎はただ、薄い友情で構わないから勘右衛門の好意を得たいと思っただけだ。そのささやかな願いを自分が口にした途端、何故彼がそんな表情になってしまったのか分からない。気が付けば衝動のままに勘右衛門を抱きしめ、彼から苦しみを取り除く術を乞うていた。

勘右衛門は自分と同じかやや大きいくらいの体格の男だ、さすがに腕の中にすっぽりと包み込むことはできない。それでも初めて腕に収めた恋しい存在に、感じる懐かしい体温と匂いに、胸のときめきを覚えていた。
苦しそうな勘右衛門を見ていられなくて抱きしめたというのに、彼に触れられたことが嬉しくて仕方ない自分に、三郎は少々呆れた。心の臓は普段よりも早いリズムを刻んでいる。

自身の今の状態を客観視して、やはり勘右衛門が好きだと再確認した三郎は、彼が身動ぎすらしないのをいいことに、腕の中の愛しい存在をただ全身で感じていた。

「お前さ、――……俺のこと、好きなの?」

そんな最中、蚊の鳴くような声で紡がれた聞き覚えのある問いに、三郎は狼狽した。
衝動のままに行動してしまっていたが、友人をこんなにも長い時間抱きしめていることなどあるものだろうか。大体、身体が密着している時点で三郎の高鳴る鼓動が伝わってしまっている可能性もある。
勘右衛門にこの気持ちを知られるわけには行かないのに、あふれる愛しさに突き動かされ迂闊な行動を取ってしまっていた。三郎は咄嗟に腕に閉じ込めていた勘右衛門を放した。

三郎にとって、これは初めての恋だった。恥ずかしいとか嬉しいとか焦りといった昂ぶる感情の抑え方が分からずに、肌が勝手に熱を持つ。面をつけている顔はいいが、耳や首といった自身の肌が露出している部分はきっと、見るからに赤くなっていることだろう。
瞠目した勘右衛門がこちらを見ている。失敗した。こんなにも分かりやすく態度で示してしまっては、聡い勘右衛門が気づかないわけがない。今後距離を取られ、共に居ることも叶わなくなるのだ。脳裏に展開される悲しい未来の想像に、三郎は打ちひしがれた。

拒絶される痛みに備えて、脳内で必死に絶望の予習を繰り返しながら勘右衛門の顔色を窺う。だが驚いたような表情で固まっていた勘右衛門は、次いで三郎の予想とは異なる反応を示した。唐突に、人の悪そうなにんまりとした笑みを浮かべたのである。

「ふぅん?」

面白いものでも見つけたかのような、意地の悪い笑顔だ。頬はふわっと赤みを帯びて、瞳はきらきらと煌めいている。こんな表情は初めて見た。勘右衛門の悪戯っぽく輝く表情に三郎は魅入った。心の臓を鷲掴まれたような感覚に陥りつつ、彼を抱きしめたい衝動を必死に堪える。

ニヤニヤ笑いながらこちらを観察している勘右衛門に未だ釘付けになりながら、三郎はふと疑問を覚えた。
三郎の恋慕の情がうっかりあふれてしまっていたのだろうこの時に、彼は何故そんな魅力的な表情で笑っているのか。その直前につらそうな顔をした理由は、なんだったのか。
二つの疑問から導き出される勘右衛門の胸の内の推定に、三郎の心の臓は胸郭から飛び出してしまいそうなほど激しく暴れ出した。期待と不安がない混ぜになった感情に苛まれる。

推測の域は出ていないのだ。違っていたらどうしよう、という不安はある。しかし三郎にはいまさらこの初恋を上手く取り繕える気などまったくしなかった。勘違いなのであればいっそ潔く散ってやろうではないか。漢らしく腹を括ると、三郎は意を決して勘右衛門に正面から向き合った。

「恋なんかじゃない、と言われたけど。私はやっぱりお前が好きだよ、勘右衛門。お前が恋しくて堪らないんだ」

勘右衛門のきらきら光る瞳を真っ直ぐに見つめて、想いが彼の心に届くよう祈る。
それまでにやにや笑っていた勘右衛門は、三郎の直球での告白に目と口をぱかりと開きすべての動きを止めた。暫しして、まあるく見開かれた目から水滴が一粒、ぽろっとこぼれ落ちる。

恋慕の情を告白したら、あの勘右衛門を泣かせてしまった。彼の反応をじっと見守っていた三郎は、不本意かつ想定外の反応に出くわし一気に血の気が引いた。

「す、すまない……! 今言ったことは忘れてくれ!!」

三郎は動転した。芯の強い勘右衛門が泣くほど嫌がるとはさすがに思っていなかった。やはり自分に都合の良い解釈をしていただけだったのだと思い知る。だが一度紡いでしまった言葉を戻すことはできない。結果お粗末にも、告白を撤回する旨を慌てて口にした。

しかし勘右衛門は、動揺している三郎の腕をつかみ、押しとどめるようにぐっと力を込めた。驚いて目を遣れば、彼は三郎の目を見つめたまま首を横に小さく振った。
その意図を図りかねてじっと見つめていると、勘右衛門は突然、今まで見たことがないほどきれいな顔で笑って見せた。滲んだ目の端からもう一粒、水滴が光を弾いて転がり落ちる。三郎は失望で止まりかけていた己の心臓が、その眩しい笑顔に再び小さく脈打ち出したのを感じていた。

告白を撤回した三郎に否定の意を示し、輝く笑顔を見せた勘右衛門。その反応が意味することは何か。彼に対し三郎が抱いている恋慕の情を嬉しいと、自分も好きなのだと思ってくれていると捉えていいのだろうか。息を吹き返した心の臓が、その活動を急速に活発化させていく。三郎は未だ信じられない思いで、目の前にいる恋しい人をまじまじと見つめた。

勘右衛門は涙をこぼしながらも、今なお嬉しそうに笑っている。幸福そうなその表情に、さすがの三郎にも徐々に実感が湧いてくる。襲い来る強烈な喜びに胸が張り裂けそうだ。

だが原因が喜びであれ何であれ、泣かせるのはやはり本意ではない。どうすれば泣き止ませられるのか分からず困った三郎は、未だ涙を零している勘右衛門の目元に指を伸ばした。

「泣くなよ……」
「……そのままお前に返すけど」

素直に三郎の指を受け入れ涙を拭われた勘右衛門は、そう言いながら不審そうな表情で三郎の顔に手を伸ばしてきた。その指先で目元を払われて初めて三郎は、己の目もまた水気を含んでいたことに気が付いた。

「え、……あれ、本当だ」

どおりで先ほどから、目の前にいるはずの勘右衛門の顔がふにゃふにゃ歪んで見えていたわけである。幸せそうな笑顔をもっとよく見たいのに、どんなに目を凝らしても焦点が合わなかったのは水の膜ができていたからだったのだ。

「なんでこのタイミングでお前が泣くんだよ……、実は鉢屋って泣き虫なんだろ」

泣き笑いの顔の勘右衛門が、三郎の首に腕を絡めてくる。耳元で聞こえるすんすんと鼻をすする音に、三郎はこれが夢や幻などではないのだと実感を深めた。

「……で、返事は?」

自身の首にかじりついている勘右衛門の身体に腕を回しながら、三郎は言葉少なに尋ねた。
気持ちは通じ合っているとは思う。だが彼が三郎のことをどう思っているのか、まだ言葉では聴けてはいない。三郎としては勘右衛門自身の口から、明確に言葉で聴いておきたかった。故に改めて返事を要求したわけである。

「俺もお前のことが好きだよ、さっき言っただろ!」

三郎の問いに、勘右衛門は少し照れ臭そうに笑いながらもきちんと返事をしてくれた。同時に首に回った腕に力が込められる。
言葉にして貰ってなお、これが現実だという実感はやはりすぐには湧いてこなかった。本当に? 本当に勘右衛門が自分のものになるのだろうか。だが腕に収まった存在が、これが現実なのだと教えてくれる。

三郎はあふれてくる幸福感を噛み締め、衝動のままに腕の中の勘右衛門を力強く抱きしめた。それに応じるかのように、彼は三郎の肩口に己の額を擦り付けてくる。それがなんだか可愛らしく思えて、三郎は喜びのあまりに体中の血管が破裂するのではないかと思った。

喜びの絶頂にいた三郎は、しかし唐突に不安に襲われた。
勘右衛門は雷蔵に恋慕の情を抱いていたはずである。三郎が告げた好きの意味を、はき違えているのではないだろうか。なんせ彼は方々で天然の気があると表されている男だ、その可能性は否定できない。
そして彼は、巻き込まれ体質と言われるほどのお人好しでもある。三郎の一連の行動に対して、これまでと同様にただ受け容れてくれていただけなのかも知れない。 そんな不安と共に再び脳裏をよぎる絶望と闘い迷いながら、それでも三郎はその疑問を口にした。

「それは……どういう意味の好きなんだ? だって勘右衛門はずっと雷蔵のことが、」

しかし問いかけは最後まで言葉になることなく途切れた。唇が温かいものに塞がれてしまったからだった。今や三郎の目の前はぼんやりとした肌色で埋まっていて、思考が完全に停止する。

「――うるさいな、無粋なことは言わんでよろしい。……今ので、分かっただろ!」

それは一瞬の出来事だった。唇に感じる温もりは失われ、同時に肌色が勘右衛門の顔へと変わる。至近距離から眉尻を釣り上げて睨んでくる彼の顔は全体的に赤みを帯び、眉間にしわが寄っている。どうやら照れているらしい。よく分からないその態度がまた可愛いと思った。

勘右衛門の想いが三郎と同じだと確認でき、彼から口吸いまでして貰えた。その事実が死ぬほど嬉しい。
だが三郎はまだ物足りない、もっと勘右衛門を感じたいと大変欲深い事を思った。故に、未だこちらを睨んでいる彼の目をじっと見つめて口を開く。

「分かんなかったからもう一回」

そう嘯いて二度目を強請ると、瞠目した勘右衛門は時間差で頬を赤らめて口を引き結んだ。恥ずかしそうな表情を隠すように顔を伏せてしまう。
先ほど自ら率先してしておいて、求められると恥ずかしいのだろうか。三郎は不思議に思いつつ、見えなくなってしまった彼の顔を覗き込もうと己の顔を近づける。

その時、再び柔らかい感触が唇に押し当てられた。今度もすぐに離れていきかけたそれを追いかけて、啄むように何度も唇を合わせる。

勘右衛門を得られたこと、彼に唇を許して貰えていることが嬉しい。嬉しすぎて死にそうだ、と三郎は思う。唇を軽く離す瞬間に薄目を開けて窺えば、勘右衛門はうっとりとした表情で目を閉じている。薄く色づいた目元と赤く濡れた唇がなんとも色っぽい。
なんともあでやかな勘右衛門を垣間見て辛抱堪らなくなった三郎は、再び唇を合わせると同時に薄く開いた隙間から彼の口内に己の舌をねじ込んだ。
次の瞬間には鳩尾みぞおちに重い拳を食らい、三郎は身を半分に折るようにしてその場に倒れこんだ。

「調子乗んな! この助平!!」

その場に仁王立ちになった勘右衛門に、声高に罵られた。倒れ込んだ体勢から見上げた彼は、口元を手で押さえたままこちらを睨み下ろしている。耳どころか額まで赤く染めた物慣れない様子、恥ずかしそうな表情が愛しいあまりに、三郎の心の臓は痛みを覚えるほど激しく伸縮を繰り返した。
あふれ出る幸せな気分のまま、にまにま笑って見上げる。すると未だに顔を赤く染めたままの勘右衛門が、面白くなさそうにチッと舌打ちした。そのまま踵を返し自身の席に着いてしまう。

「さっさと書類、片付けるぞ! まだ山ほどあるんだからな。チンタラするなよ!」
「はいはい」

こちらに背中を向けたまま怒鳴ってくる勘右衛門の耳は、先ほどより一層赤く染まっている。――照れ隠しか。素直でない勘右衛門も愛(う)いなと思いつつ、機嫌を損ねるのは本意ではない。故につり上がる口角をなんとか抑えた三郎は、彼の言に従う旨だけをやや雑な態度で返答した。

「――……早く終わらせて、団子でも、食いに行こうよ」

追って聞こえた微かな声に、三郎は耳を疑った。弾かれたように顔を上げて発言主を見遣るも勘右衛門はやはりこちらに背を向けていて、表情を見ることができなかった。

間違いなく、勘右衛門は『団子を食べに行こう』と言った。両思いの二人が連れ立って出かけるということは、デートのお誘いなのではないか。しかも勘右衛門の方から誘ってくれること自体、初めてのことである。

「……ああ!! そうだなそうしよう!」

三郎は心中で爆発する嬉しさを原動力に床から跳ね起きた。

「言っとくけど! 鉢屋のおごりだからな!!」

満面の笑みで同意を示した三郎に、肩越しに様子を窺っていたらしい彼は、頬を赤くしたまま半眼で睨みつけてきた。自ら提案しておきながら居心地が悪そうなのが大変可愛い。

勘右衛門への愛しさと喜びが振り切れかけ有頂天になっていた三郎は、つい『いくらでも』と口走りそうになったのだがなんとか堪えた。確かにいくらでも奢ってやりたい気分ではある。幸せそうな勘右衛門を見ているだけで、三郎は幸せな気分になれるのだから。
だが相手は い組の級長を務める食えない男・尾浜勘右衛門である。滅多なことを口走り、未来永劫あらゆる場面で引き合いに出されたらたまったものではない。これから末永く付き合っていくつもりなのだ、何事も慎重にしなければならないぞと自戒する。

初デートに早々に繰り出すためには、文机の上に積み上げられた書類の山を片付けてしまわねばならない。既に作業を再開したらしい勘右衛門の背中を眺めて幸せな気持ちを噛み締めた三郎は、自分も仕事に取りかかろうと急いで自分の席に駆け戻った。

〈おしまい〉

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