堕とした末は、深き朱 //落乱-鉢尾小説 万年時計のまわる音

学園を擁する山の木々が赤や黄色に衣替えを済ませ、涼しげな虫の声が聞こえてくるようになったある夜。
三郎は長屋の自室で灯明を点し課題に取り組んでいた。半開きにした戸の間から、丁度いい温度の空気が緩やかに流れ込んでくる。
肌を撫でていく微風の快さに心和ませながら、静かに筆を進めていく。

たまにはこんな夜もいいものだ。

清々しい気分に、頭の片隅でそんなことを考える。

同じ部屋に住まう相棒は、今宵は部屋を空けていた。今朝方、出立の折に多くを語らなかった点からして忍務に駆り出されているのだろう。
共に行けないのは残念だが、三郎とてひとりで出ることも少なくない。忍務である以上は仕方のないことである。彼は迷い癖はあっても十分優秀な忍たまであり、切磋琢磨し共に成長してきた身として心配はしていない。

この課題の提出期限は来週だ、まだ切迫しているわけではない。また座学の課題は大抵雷蔵と一緒に取り組んでいた。
にも拘わらず今三郎がひとり向き合っているのは、相棒がその課題を既に済ませてしまっていることを知ったからだった。

いつやろうかと話題を振った三郎に、雷蔵は図書委員の当番中に既に終えたのだと言った。しかも、やや難しい設問もあったが先輩の助言を得て解くことができた、と至極嬉しそうに話してくれたのである。そんな相棒に、一緒に取り組む気満々だった三郎は大変がっかりした。
そういう経緯で、雷蔵が不在である本日中に自分も片づけてしまおうと考えたのだ。

改めて目を通した課題はさほど量もなく、就寝時間までには終えられそうだった。
早々に終わらせてさっさと休むに限ると思い、黙々と筆を動かす。しかしその時、ふと気配を感じ戸口の方へと目をやった。

いつの間に来ていたのだろうか、風を入れる目的で開けておいた戸の隙間から見知った顔が覗いている。その丸い瞳と目が合うと、彼は許可も取らずにするりと室内に入って来た。後ろ手に戸を閉めゆったりと歩み寄ってくる。

「よー三郎。暇?」
「見りゃ分かるだろ」

間延びした声に、三郎は机上に視線を戻しながら素気無く返した。
どう見ても暇には見えないだろうにわざわざ聞いてくる辺り、あまりいい予感がしなかった。まず間違いなく邪魔をするつもりだろう。

「うん、暇だよな」
「……お前のそのでかい目は節穴か?」

わざわざ事実と異なる見解をさも当然そうに口にした狸に、半眼になりつつ嫌味でもって応じた。

狸、いや尾浜勘右衛門は隣の組の級長だ。肩書きに恥じぬ優秀な忍たまで、頭の回転が速いが故に興味深い反面大変厄介な男でもある。
そんな食えないところもさることながら、全体的に丸っこい印象を与える外見もあり狸という表現がぴったりだと個人的に思っている。

そんな失礼な評をしながらも、三郎はしかしその狸を特別に好いていた。端的に言えば、欲を抱いている。
すったもんだの末に互いに同じ気持ちを抱いていると分かった現在、彼とは一般的に恋仲と呼ばれる関係に落ち着いていた。

現在の三郎と同様に夜着を身に纏って現れたその男は、嫌味など気にも留めぬ様子で三郎の背後に回り込んだ。そのまま三郎の背中にのしかかり体重を預けた体勢で、三郎の顔のすぐ横から頭を突き出し机上を覗き込んでくる。

「あれ、ろ組ってまだそんなとこやってんだ」

出たよ、い組の十八番。
意外そうな勘右衛門の発言に、三郎は若干の苛立ちを覚えた。
事実かどうかは知らないし興味もないが、成績のいい者が集められていると言われる い組は、座学の進みが他の組に比べて早い傾向にある。そしてその事実を嫌味たらしくも誇示してくる節があるのだ。
わざとか天然か、また言及の仕方や嫌味の度合いには、年齢や個々の性格によって差があるようだった。ちなみに三郎たちと親しくしている五年い組の二人組は恐らく天然だと思われ、悪気はないようではある。しかし多少なり腹立たしく感じることに変わりはない。

一方で三郎は、苛立ちながらも自分の気分が少しばかり高揚し始めているのを自覚してもいた。至近距離にいるが故に、嗅ぎなれた勘右衛門自身の匂いが鼻腔をくすぐっていたのだ。
特別いい香りというわけではないのだが、ほのかに感じられるその匂いは愛しい人の存在を感じさせ、幸福感を覚えると同時に淫蕩な夜の記憶をも呼び起こす。

しかし生憎三郎は現在、課題で忙しいのだ。こんな時分に何をしに来たのかは知らないが、簡潔に用件を言わないのなら己のすべきことをするだけである。
覚えた感覚を意識の外に締め出して、彼にかまうことなく引き続き課題の文章を目で辿っていく。

勘右衛門は暫く背中にくっついたまま筆先を眺めていたが、飽きたのだろうか徐々に背中をずり落ちやがて腰に抱き着く体勢になった。そこから匍匐前進の要領で身体をずらし、三郎の身体と文机との間に無理くり上半身を割り込ませてくる。
狭いその空間に割合がっしりとした勘右衛門が楽々と入り込めるはずもなく、彼が文机にぶつかる度に文字が乱れた。

「……おい、邪魔なんだが」

文句を垂れるも今度も気にする様子など一寸たりともみられなかった。やがて腰に抱き着いたまま膝上に上半身だけ乗り上げた体勢になり、ようやく動きを止める。
一連の行動を怪訝に思いながらも、最初の文句以上は何も言わず彼の好きにさせた。恋人が自ら関わってくること自体は三郎とて普通に嬉しい。課題の邪魔をしないなら特に文句はないのである。

「なー三郎」
「話しかけんな」

しかし大人しくしていたのはわずかな間だけだった。下から話しかけてくる勘右衛門をぴしゃりと遮る。

「しよ?」
「――…………、は?」

次いで耳に飛び込んできた具体性に欠けた言葉に、三郎は反射的に聞き返した。
勘右衛門は先ほど素気無く拒否されたことにも腹を立てた様子もなく、口元に淡い笑みを乗せただ丸い目でじっとこちらを見上げている。

「――……狸の発情期はもっと先じゃなかったか?」
「誰が狸だ!人間だっての!!」

思いがけない展開に驚き半ば呆然として、口からこぼれるに任せて冗談を吐く。くりくりと動く瞳を見つめれば、彼は不服そうに唇を尖らせた。
なるほど、どうやら彼は欲を覚えていて三郎を誘っているらしい。こんな時分にやってきたのは、雷蔵の不在を知っていたが故だろう。
だが現実味がないからか、まるで他人事のように遠く感じていた。
恋人から求められることほど嬉しいことはない。それ以前に、彼は元よりそういうことにあまり積極的な方でなかった。喜びもひとしおである。珍しいこともあるものだ。一周遅れで実感と歓喜がでじわじわと湧いてくる。

「――へえ……?もしかして、それで来たのか?」
「ん~、……そんな気分になった、から」

あまり乗り気でないことが多い彼に素気無くあしらわれがちな三郎が意趣返しのつもりで直接的に問うと、勘右衛門は明後日の方を見ながらやや遠回しに肯定した。その頬には若干朱が差している。微妙な表情からは、照れと羞恥が半々であるらしいことが窺えた。
慣れない感覚と闘っているのだろうか。そんな微妙な反応も可愛げがあって悪くないなと思う。
しかし三郎は思ったこととは裏腹に、視線を再び課題へと戻した。

「課題が終わってないから無理」

先刻と同様にそっけない態度で否の意を口にした。
先ほどまで三郎はひとり穏やかな秋の夜を楽しんでいたのだ、今宵はゆったりとした時間を過ごしたい気分だった。また、いつも素気無くあしらわれている自分の気持ちを実感させることで、今後の彼の態度改善に繋げたいという邪な狙いもあった。

「えーなんで?それ提出期限来週だろ?」

しかし勘右衛門はへそを曲げるでも落胆するでもなく、ごく自然な態度で不思議そうに尋ねてきた。指摘された内容に三郎は面食らう。
課題は授業で出されたものであり、彼はろ組の生徒ではない。それなのに。

「……なんで知ってるんだ」
「なんでだと思う?」

訝しさを纏わせて尋ねれば、勘右衛門は愉快そうな笑みを浮かべてオウム返しに問うてきた。にまにまと笑う狸顔に思わずムッとする。
このまま会話を続けたら、勘右衛門の思う壺だ。

「――とにかく、今夜はしない。そういう気分じゃない」

抱いた些末な興味を意識的に捨てると、今一度はっきりと断った。
あれは一月ほど前のことだったか、勘右衛門を求めたが素気無く断られたことがあった。その時自分は燻る熱を持て余しながらも、不満を言うこともなく潔く引き下がったのだ。行為は一方的にするものではない。故に恋人の気持ちを尊重し、己の要求を取り下げたのである。
だから同様に、今宵は彼に恋人として自分の意思を尊重して貰いたかったし、そうあって然るべきだと考えてもいたのだ。しかし。

「またまたぁ~、無理すんなよ。いつもうざいくらい熱心じゃん」
「うざいってなんだ、うざいって!?」

勘右衛門は三郎の希望を一切汲むことなく、むしろ粉砕するような発言をした。失礼かつ割とショックな内容に、三郎は思わず噛みつく。
だが彼はそれも無視して、自らの身体をずらし三郎の股座を見下ろす体勢を取った。

「なあ、息子くんだってしたいよな~?」
「股間に話しかけるんじゃないッッ!!」

何を言ってるんだこいつは!?予想外が過ぎる彼の言動に、三郎は唖然としつつも思わず声を荒げる。
しかし吠える三郎をやはり無視した勘右衛門は、今度は袴の上から三郎の股間を撫でさすり始めた。意図のこもったねっとりとした手つきに、三郎の三郎はすぐに反応を示し始める。

「ほら、息子くんもしたいって言ってるぞ?素直じゃないなあ」
「撫ーでーるーなぁーーー!!!!」

淡い快感にじわじわと侵されながら、三郎は単純過ぎる己の反応とそれを直接的に言及されたことの両方に羞恥を覚えて喚いた。
そりゃ恋人にナデナデされたら元気にもなるわ当たり前だろう!

堪らず勘右衛門の襟首を掴んで己の身から引っぺがし、背後へぽいっと投げ捨てる。それから居住まいを正し、改めて文机へ向き直った。
しかし物理的に排除されてもなお、彼は諦めなかった。懲りることなく背中側から三郎の首に腕を回して再び抱き着いてくる。

「なー、しようよぉ。変な意地張ってないでさあ~」

腕を首に回した状態で、勘右衛門の手のひらが三郎の肩や腕を意味ありげに這いまわる。衣の上からだが、やはり露骨な意思を孕んだその感触は三郎の肌にこそばゆい感覚を残した。
こそばゆさと溜まりゆく熱を黙殺しなおも無視を続けていると、三郎は不意に生温かく湿った感触を耳に覚えた。ぞわぞわと背筋を怖気に似た感覚が這い上がる。
どうやら耳殻を唇ではむはむと食まれているようだ。かつてないほど直球かつ魅惑的な誘い方に、三郎は内心でぐぬぬと歯噛みした。

絶対に屈するものかと半ば意地になり、生じる欲をねじ伏せようと心中で格闘する。現在の三郎の脳内は、珍しくも積極的に誘ってくる恋人に応え堪能したいという意見と、愛あるが故に己を尊重して貰いたいという意見で真っ二つに割れ対立していた。
脳内での紛糾に気を取られていると、唐突に頬に手を添えられ力づくで振り向かされた。思いがけない行動に瞬く三郎の目蓋に、口付けが落ちてくる。ちゅむちゅむと小さな音が耳に届き、柔らかい唇の感触が欲を誘う。ぐぬぬぬぬう。

「――お前さあ……、」
「ん?」

欲を散らすようにわざと嘆息しながら見上げると、勘右衛門は小首をかしげてこちらを見返してきた。
その頬は薄っすらと赤みを帯び、やや細められた黒く大きな瞳には欲が蹲っているようだった。唇は柔く弧を描いている。
魅力的に映るその顔に、三郎は徐々に膨れ上がる欲を抑えきれなくなってきた。

これほど熱心に誘ってくるなんて消極的だった頃が嘘のようだ。しかしそれでも、いやだからこそ、ここで流されるのは何となく癪だった。
故に三郎は、覚えた欲をどうにかして揉み消そうと四苦八苦しながら眉をひそめた。

「この間逆の立場だった時に私がどうしたか、覚えてるよな?」

先日の出来事に言及する形で、己の希望を直接的に訴える。
ただ実際のところ、あの時は勘右衛門が急にやる気になってくれたため最終的には三郎の希望が通った形になったのだが。

あの時一体何が彼の気分を変えたのかは分からなかったが、急に自分を押し倒し誘い返してきた勘右衛門は至極えろい顔をしていた。見下ろしてくる黒い瞳が欲を孕んで光り、赤い舌で己の唇を舐める様が堪らなく官能的だったのだ。
当時の恋人の姿を思い返していたら、揉み消そうとしていた欲が一層強まってきた。彼は相変わらず大変魅惑的な表情を湛えこちらを見つめている。
その顔を食い入るように見つめるうちに、三郎の身体は己の意思をあざ笑うかのように勝手に勘右衛門の方へ向き直っていた。向き合った体勢で片手で彼の腕を掴み、もう片方の手を腰に回して抱き寄せる。

勘右衛門は引き寄せられるまま素直に三郎の膝上へと乗り上げてきた。言葉を返すことはなく、ただ笑みを深めこちらを見つめている。
やや上から見下ろしてくるその表情はなんとも言えずあでやかで、なおのこと気持ちが昂っていく。

こんな状態では穏やかな秋の夜を満喫することも、課題に集中することもできない。
彼の思い通りになってしまうのはやはり大変遺憾で不満ではある。だが激しく燃え上がっていく欲を堪えられそうになかった。

今夜中に課題を片付けることを内心で溜息を吐いて諦める。次いでこの後の行動を思い目をやってようやく、開けていた戸がとっくの昔に閉じられていたことを認識した。

近くで、吐息だけで笑う音がする。彼の張った罠に、まんまとはまった気分になった。

「――……この、狸め」
「いやあ、それほどでも」

どうにもできない歯痒さを粗末な文句で呟き睨み上げると、勘右衛門はしたり顔で笑い請け合った。その表情もまた三郎の欲を煽る。

褒めてない。――いや、これは褒めているのだろうか?

口を噤んだまま、そんなどうでもいいことを考える。
そしてその減らず口を利けなくしてやろうと、目の前にいる恋人からその身を包む衣を剥ぎ取りにかかった。

堕とした末は、深き

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[2020/08/29]

鉢尾の日に上げた『絆され堕ちた、先は朱』の対になるお話でした。
というか、ぶっちゃけこっちが書きたくて書き始めた話だったんです。……全然間に合わなかったので別日UPになりました(苦笑)
ということで今回も「したい」と「したくない」がかみ合わない時、鉢尾ならどういう反応するかな?というのが話の発端のお話です。前回が鉢屋くん、今回が尾浜くんの対応を相手目線で書いた、という体であります。
うちの鉢尾、身体から入るきっかけを作る癖に行為にはあんまり乗り気じゃない尾浜と、だんだん夢中になり欲望に忠実になっていく酷い鉢屋くんの組み合わせが多いのでこのパターンは結構珍しいのかな、と思います。
ものすんごく無粋ですがぶっちゃけると、『したいっていう自分の意志を通すために、尾浜があの手この手で誘惑した挙げ句に絆されつつある鉢屋を見て「あとちょっとで陥落できそうだなー」ってによによしてる』っていう、勘右衛門の方が一枚上手な鉢尾も超絶可愛いな!!???という萌えが突如爆発した結果生まれたお話でございました。
多少なり感じて頂けてるかな?同意して貰えたらめちゃくそ嬉しいな!!!!と思ってますw

エロじゃないけど今回ももれなくエロ風味です。性癖だから仕方ないね。てへぺろ。
書きたかった話が書けて満足です!
ちなみに超蛇足ですがこの話(一部)の尾浜目線の短文もあるのでよければ!

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