肆、涙の破壊者 - 室町狐狸合戦! //落乱-鉢尾小説 

肆、涙の破壊者

すがすがしいほどの秋晴れの午後、傾きかけた陽光が世界を橙色に染めていく。衣更えを始めた木々の葉が木枯らしに揺れ、夏の終わりを惜しむようなひぐらしの声に哀愁を覚える。まだ夕暮れには遠いが、そろりと秋を奏で始めつつある虫の音が涼しげだ。
比較的暖かく穏やかな秋の日がもう間もなく終わろうとしていた。

そんな秋の平和な休日を、尾浜勘右衛門は久々知兵助・竹谷八左ヱ門の二人と共に町で過ごした。近頃沈みがちな勘右衛門を気遣ってだろう、二人がうまいうどん屋があるから一緒にどうだと誘ってくれたのだ。午後を共に過ごし一足先に学園へ戻った勘右衛門は、自室でこれまでの経緯を思い返していた。

勘右衛門が沈みがちになっている発端は先日行われた学年合同演習にあった。 演習が終わり、負傷し兵助に抱えられて学園に戻った翌日の朝早く、勘右衛門はある決意をした。

「鉢屋と身体の関係を持つのはやめる」

鉢屋とは少し前から身体だけの関係を持っていた。勘右衛門が提案した口約束で成立している、破棄するにも一言やめると言えばいいだけの薄っぺらい契約だ。しかし、勘右衛門はその至極簡単な破棄の手続きをまだ実行に移せずにいた。

まず演習での負傷が問題だった。
勘右衛門は自身の怪我について、鉢屋にはもちろん周囲の人にも伏せておきたかった。鉢屋に怪我を隠していた理由を聞かれたら困るし、それがうまく誤魔化せたとしても勘右衛門の身を案じてはくれるだろうが、同時に呆れた顔で勘右衛門を小馬鹿にするに違いない。もし周囲の人にバレたら鉢屋の耳に入るのは必至だし、負傷した詳細を同級生たちに尋ねられるのも厄介だった。隠し通すことが勘右衛門にとって最良なのだ。
しかし、痛む身体を引きずりながらいつものように元気に振舞うことは勘右衛門の精神を酷く消耗させた。手段的には簡単な契約破棄は勘右衛門にとっては重大案件である。元の通り普通の友達に戻るのが彼の理想なのだが、実現させるのは至難の業だ。精神を擦り減らして生活している今、それを成し遂げるべく画策するのは不可能だった。

そして何より――――勘右衛門はまだ、鉢屋が好きだった。
手放したら二度と手に入らないことが分かっている愛しいその腕を、自ら手放すのはひどく辛いことだった。―――自分が想われていないことが分かってはいても。
だが実際に関係を持つわけにはいかない。己が決意したことを撤回するつもりはないし、第一今は怪我の痛みで行為に集中できるはずもない。それ以前に重度の打ち身で色が変わってしまっている負傷箇所を鉢屋の前に晒すのは、自ら負傷していることを暴露することである。

以上の二つの理由から、実習以来勘右衛門はこっそりかつ計算づくで鉢屋を避けていた。二人きりになれば契約の話になるという確信があったからだ。この計画は兵助の助けも借りて問題なく遂行されていた。

兵助はこの所常に勘右衛門と共に行動していた。委員会がある時は送迎することも少なくなく、その徹底した世話焼きっぷりに勘右衛門が八左ヱ門に少々申し訳なく思う程だ。
これらの行動は兵助が自ら始めた事だった。勘右衛門は何度も遠慮したのだが兵助は断固として実行している――結果としては精神面で大いに勘右衛門の助けとなっていた。
どうやら彼は勘右衛門の鉢屋に対する気持ちと関係の変化に気付けなかったことを酷く気に病んでいるようである。勘右衛門はそんな相棒の優しさを、気に病ませてすまないと思いつつも嬉しく思っていた。

思い浮かぶ顔に微笑みを湛えていた勘右衛門は、急に顔を暗くして肺の奥から空気の塊を吐き出すように大きく息を吐いた。
今日という麗らかな休日の午後を、兵助と八左ヱ門が優しいのを知りながら気を遣わせた上、それに甘えてデートの邪魔してしまったのだ。二人の誘いに首肯した己の不甲斐なさに嫌気がさしていた。
そこで、二人でゆっくりお茶でも飲んでこいと勧めて一足先に帰った次第である。兵助はかなり渋っていたが、二人きりになれば自然と空気も甘くなろう――…少しは埋め合わせになっただろうか。
勘右衛門は優しい友人である初々しい恋人同士に思いを馳せつつ、着替えようと自分の制服を手に取った。

「勘右衛門」

突然名を呼ばれ、勘右衛門は文字通り飛び上りそうになった。その手から制服が滑り落ちる。

この、聴き慣れた呼び方。耳に残る声音、は。

勘右衛門が恐る恐る振り返ると、いつの間に開け放たれたのだろう戸の脇に…鉢屋がいた。腕を組んで壁に身をもたせ掛けた鉢屋の佇まいに勘右衛門は既視感を覚えたが、想定外の展開に思考がこんがらがりその正体を探る余裕などなかった。

どうして鉢屋が。雷蔵は外出も委員会もなくて、今日は一日室にいるはずじゃ――。しかも何故おれの帰宅を知っているのだろう。八左ヱ門はまだ戻っていないし、入門票にサインした後は誰にも会わないようこっそり戻ったのに。

絡まる思考回路からその答えを導くこともできないまま、勘右衛門は必死に平静を装って鉢屋の方へ向き直った。久しぶりにきちんと正視した気がする鉢屋は、何故か眉間にしわを寄せ鋭い視線をこちらへ向けていた。

「――…鉢屋。どうしたの、何か用事?」

勘右衛門はいつも通りを心がけて声をかけた。
兵助との共同作戦の趣旨は、なるべく兵助と一緒にいるようにして鉢屋と二人きりになる時間をなくす、これだけである。授業など皆と一緒の時間はいつも通りに過ごしているし言葉もそれなりに交わしている。
契約も、日程調整する隙が無く夜を共にできない日々が続くのはよくある事だった。さらに演習前に床に臥した雷蔵が「委員会の仕事がひと段落したのが不幸中の幸いだ」と話していたから、今は思う存分べったりして契約のことなど思い出している暇はなかったはず。要するに鉢屋が作戦に気付く要素はひとつもないのである。勘右衛門は少し落ち着きを取り戻した。

冷静になった勘右衛門は、鉢屋が尋ねてきた目的は契約の日程調整だと推測し、契約解消の手順を考え始めた。心身ともに準備不十分ではあるが今やってしまうべきなのか、予定調整に応じて考える時間を確保した方がいいか――。
最善策をひねり出すべく頭だけはフル回転させながら、勘右衛門は鉢屋の出方を伺った。そうやって彼をじっと見つめているうちに、頭の隅から要らない記憶を掘り起こしてきてしまった。

既視感の正体。それは――――鉢屋を罠にはめた、あの日の。
始まりと終わりで同じ光景を見ている。勘右衛門はその要らない情報に何とも言えない複雑な思いに駆られた。
一方の鉢屋は黙したままじっと勘右衛門を見ている。…いや、睨んでいるというのが正しいかもしれない。眉根を寄せた怖い顔で勘右衛門を睨み据えたまま、口を開く。

「勘右衛門。お前、最近私のことを避けているな?」

「っ、えー?急に何言ってんだよ鉢屋。おれら授業でも委員会でも毎日のよーに顔あわせてるじゃん。今日も話したし、今だってしてるだろ?」

想定外の言葉に頭が真っ白になった勘右衛門だったが、動揺を押し隠してシラを切った。震えそうになる声を誤魔化すのに苦心しながら、ほぼ反射的に言葉を選び口に載せた。いつも以上に軽い調子になってしまった気もしたが、気にしたら負けだと己に言い聞かせ虚勢を張る。
だが鉢屋は少しも表情を変えず、静かで強い視線でまっすぐに勘右衛門を射抜く…納得していないのは明白だ。

「…うーん、そーいや二人だけになるのは……最近あんまなかったかも?なに、そんでおれが恋しくなっちゃったの?鉢屋ったら甘えんぼ~」

それ以上動きのない鉢屋と気まずい空気に耐えられずに口を開くと、いつも通りの軽口がスラスラと出てきた。それに安堵して鉢屋を伺うと―――彼の瞳には先刻より深い怒りがありありと湛えられ、眉間のしわの深さも悪化しているではないか。
勘右衛門が何かまずいことでも言っただろうかとその原因を考えあぐねていると、だんまりを決め込んでいた鉢屋がようやく行動を起こした。ゆらりと身を起こして勘右衛門に正面から相対する。

「…ふざけるなよ、私が気付かないとでも思ったか…?」

いつもよりも、低く、唸るような声。

シン、と静まった部屋に、まだ小さな虫の音が寂しげに響く。
冷たい汗が背を伝い落ちる感覚に、勘右衛門は小さく身震いした。

「ふとした拍子に私と目が合うとすぐに逸らす、私と話してる時は大抵目が泳いでいる、その上しばしば目だけで兵助を探している。委員会が早く終われば毎度何かと用事があるとさっさと帰る、定刻を過ぎると兵助が迎えに来る。授業中だろうが休み時間だろうが朝から晩までやたら兵助とべたべたくっ付いてて、おまけに今日は八左ヱ門と三人で町に行くだと?――不審な行動が多すぎるだろうが」

鉢屋回避作戦のほぼ全て、おまけに勘右衛門が隠しきれていなかったらしい仕草までがつらつらと並べ立てられ、さすがの勘右衛門も返す言葉がみつからない。

「――さあ、何故そんな小細工をしてまで私を避けるのか。今すぐ説明してもらおうか?」

鉢屋の口からはっきりと突きつけられる要求。
それをうまく躱す、あるいはこの場から遁走する術を得ようと勘右衛門は頭をフル回転させた。だが鉢屋はそんな勘右衛門の考えを見抜いたらしく一層眉を吊り上げた。

「誤魔化そうったってそうはいくか、絶対に吐かせてやる!!」

鉢屋は荒々しい足取りで室内に入って来ると、勘右衛門を捕えようと腕を伸ばした。その腕を反射的に叩き落した勘右衛門は、その脇をすり抜けて薄暗くなった外へと飛び出した。同時に勢いをつけて戸を閉め追撃を阻むのも忘れない。
そのまま廊下に沿って駆ける。が、さすがは鉢屋と言ったところか既に後を追ってきている気配がある。しかしここで捕まる訳にはいかない。何とかしなくては…。
ジリジリと痛む脇腹を無視して夕闇の中を全速力で駆けながら、勘右衛門の本日幾度目かの、そして最速のフル回転で彼の脳は最善の行動を素早くたたき出した。

雷蔵。

そうだ、雷蔵の下へ逃げ込むのが最善だろう。
鉢屋が最も契約の存在を隠したい相手である雷蔵に泣きつけば、雷蔵は絶対に守ってくれる。事情を話せない鉢屋は手も足も出まい。そのまま兵助たちが帰ってくるまで雷蔵と一緒に居ればいい。
日頃の行いがいいからだろうか、運のいいことにあと少しでろ組長屋に到達する。そこまで逃げ切れれば。

そう思った瞬間、勘右衛門は浮遊感を覚えた。強い力で横に引っ張られ景色が回転する。次の瞬間、背中に衝撃を受け強い痛みが脇腹を突き抜けた。息が詰まり、反射的に強く目を閉じる。
だが追われる身である勘右衛門には痛がっている暇などない。気合いで痛みを打ち消して目をこじ開ける、と――…光る双つの眸が、ひたと彼の瞳を睨み据えていた。

勘右衛門はさして広くない暗い室内に転がっていて、上から鉢屋に覆いかぶさられていた。勘右衛門の狙いに気付いた鉢屋が手近にあった空き部屋に放り込んだ、大方そんな所だろう。
何とかこの場から逃れようともがくが、強い力で抑え込まれあっけなく組み敷かれてしまった。押さえつける鉢屋の腕は勘右衛門がどれほど力を込めてもびくともせず、鉢屋はこんなに力が強かっただろうかと途方に暮れた。

「…今ならまだ許してやる。――何故、私を避ける?」

まだ暗さに慣れない勘右衛門の目は覆いかぶさる鉢屋の表情を視認できなかったが、静かに尋ねるその声は怒りを孕んでいた。しかし勘右衛門はそれに答えるつもりはなかった。鉢屋に伝えたい言葉など、彼の中に何一つとしてないのだから。
唇を引き結んだ勘右衛門に、鉢屋は面白くなさそうに鼻を鳴らした。ようやく闇に慣れてきた勘右衛門の目が、近づいてくる彼の顔を認識する。見上げ慣れた色の薄い瞳は昏く光り、様々入り乱れた強烈な感情が奥底で揺らめいているようだった。

「――こんな状況においてなお、頑固だな勘右衛門…。いいだろう、言わないなら…」

意地の悪い狐のように笑う顔がさらに近寄ってきて、勘右衛門は反射的に顔を背けた。首筋にかかる吐息に顔面に血が集まってくるのを感じ、それを避けようと限界まで身体をよじり目を強く閉じる。そんな勘右衛門を鉢屋はせせら笑う。

「――身体に訊こうか」

耳元で密やかに囁かれる聴き慣れた甘い声音が鼓膜を震わせ、その心地よさと内容の恐ろしさに勘右衛門は身を震わせた。
本能的に危険を感じ渾身の力で暴れたが鉢屋の行動を妨害するには至らなかった。鉢屋は素早い所作で勘右衛門の髷を解き、その紐で彼の両手を頭上で括る。
勘右衛門の自由を奪った鉢屋は次に彼の上衣に手をかける。そこに至って初めて、勘右衛門は大変なことを思い出した。鉢屋は夜目が効く。そして勘右衛門の腹部には、まだ。

「…っま、待って鉢屋…っ!やめ……!」

制止は間に合わなかった。手馴れた手つきで勘右衛門の上衣を剥いだ鉢屋がピタリと動きを止める。その目は案の定、露わになった腹部に落とされている。

「―――…? どうしたんだここ。…痣、か…?」

鉢屋は訝しげに問いながら赤黒く変色した勘右衛門の腹を不躾に指でなぞる。勘右衛門は走る痛みに漏らしかけた声をなんとか呑みこんだが、顔をわずかに歪めてしまった。そしてそれを、鉢屋はしかと目撃していた。

「―――…まさかこれ……」

思いのほか重症であることを察し、一言漏らすが早いか鉢屋はその部分を丹念に調べ始めた。
これで怪我も鉢屋の知るところとなり、作戦は大失敗に終わった。勘右衛門は耐えられずに再び顔を背ける。

「…骨折…までは行ってない、よな…?………勘右衛門お前こんなのいつ―――」

鉢屋は言いかけた言葉をふつりと切った。
彼が勘右衛門と最後に夜を共にしたのは合同演習の前の晩だった。それ以後でこんな怪我を負う可能性があるのはと考えれば簡単に察しが付く。何も言う事のない勘右衛門は顔を背けたまま沈黙していたが、急に頭を掴まれ力づくで顔を正面に向かせられた。突然の乱暴な行動に驚き見開いた勘右衛門の目を、鉢屋が真正面から覗き込む。

「どうして黙っていた。…何故、隠していたんだ…――答えろ、勘右衛門!」

激しい口調で責め立てる鉢屋の間近に迫る目には激しい怒りが燃えていた。激昂した彼の眸を勘右衛門は呆然と見上げる。

勘右衛門は動転していた。友人が怪我を隠していたことに腹を立てるのは分かる。だが鉢屋の怒りは想定とは段違いに激しい。何故鉢屋がそんなにも怒るのか、勘右衛門には分からない。こんなにも怒った鉢屋を、勘右衛門はみたことがなかった。

「――私から離れてた時か……!どこで、誰にやられたんだ?!くそっ、何故合流した時に言わなかったんだ…!」

苛立ちも露わに口を動かし続ける鉢屋を見上げていた勘右衛門は、混乱が不意に治まると同時に身の内から急激に強い怒りが湧いてくるのを感じた。 何故自分が一方的になじられなければならないのか。言えなくしたのは誰だと思っているのだ。大体元はと言えば単独行動した鉢屋が悪いんじゃないか、と。隠しておきたかったかったことは全て知られてしまった、もうどうにでもなれと半ばヤケになっていた勘右衛門は、思考が麻痺したまま言葉を口にした。

「……って」 「―――…は?」

しつこい求めに応じてやったのに鉢屋の苛正しげで不躾な問い返し方に、急騰した怒りのまま言葉が勘右衛門の口をついて出た。

「――…そうやって!お前が偉そうにしてるから説明する気なんかとっくに失せたんだろ!何だか知らないけど苛々しちゃってさ。演習の時みたいだな!」

隠した真の理由とは異なれど、その一部であり事実ではあった。鬱積していた思いが堰を切ったようにあふれ、トゲを纏った言葉となって飛び出していく。

「ていうか『私から離れてた』ってなんだよ?勝手に苛々して単独行動取ったのは鉢屋だろ!どうせ雷蔵が心配なのに傍にいられなかったからだろうけど。二人組で動く演習なのに一人でどっか行っちゃったお前が悪いんじゃん、元はと言えば!」

怒鳴ったことで少し怒りが抜け、また少々痛んだ傷のために勘右衛門が一旦矛を収めると、少しは身に覚えがあったのか少々たじろいでいた鉢屋が負けじと口を開いた。

「だっ、だからといってコソコソ小細工して避けなくてもいいだろうが!わざわざそんな面倒なこと…怪我は私のせいなんだろ、だったら直接私に言えよ!意地が悪いぞ―――…とりあえず、誰にやられたんだ?言え。制裁してやる…!」

「――…はぁ?意地が悪いって何。鉢屋には言われたくない。そもそもの原因の癖になにその言い方。言っとくけど別に面倒なんかじゃなかったよ、兵助といるのは楽しいし、おれを一番分かってくれるからお前といるよか全然楽だよ!」

再び燃え上がった怒りに、言葉が衝動的に勘右衛門の口から勝手に飛び出していった。思ってもいなかったことまでぽんぽん飛び出していく。

「しかも制裁とか何言ってんの?おれその場で相手伸したし、もう済んだことだろ。なにを今更…意地が悪いのはお前の方じゃん。大体その場に居なかった鉢屋には関係ないだろ!」

勘右衛門の投げつけた言葉が部屋に反響し、暗闇に溶けて静かになった。涼やかな秋の虫の音が微かに聞こえてくる。 鉢屋が反論する気配はない。勘右衛門はようやく理解したかと息を長く吐き出した。

「…ちょっとした刺激とか振動でも結構響くんだよね、この怪我。寝るなんて、できるわけないだろ?で、それ説明するには怪我の話から始めなきゃなんない。面倒だったんだよね。これが避けてた理由。…ほら、ちゃんと説明したぞ。満足だろ?――…いい加減どいてくれる?痛いんだけど。紐も解けよ、部屋帰るから」

投げやり気味の勘右衛門の言葉にも、鉢屋は微動だにしなかった。
いつまでも動かない鉢屋に苛ついた勘右衛門は、ならば自力で帰るまでと押さえつけられていた手に力を込める。鉢屋の腕は思ったよりも少ない力で離れ、これ幸いと手の紐を口で器用にほどく。そして鉢屋の下から這い出すべくうつ伏せになる―――つもりだったのだが、それ以上の行動をすることは叶わなかった。

「…っ、ぅわ?!」

自由になったばかりの勘右衛門の両の手は、耳横の位置で再び縫いとめられた。状況が分からず唖然としている勘右衛門の目を、鼻先同士が触れる程の至近距離から鉢屋が覗きこむ。

「――…関係ない、と…?」

静かな声だった。

勘右衛門の視界いっぱいに迫る琥珀色の瞳は、恐ろしいほどに凪いでいた。
鉢屋のすらりとした指が勘右衛門の頬をゆっくりと撫で、そのまま顎にかかる。
勘右衛門は無意識につばをのみこんだ。脳裡で警鐘が鳴り響いている―――。
だがその瞳に魅入られたように、勘右衛門はは目を逸らすことも、逃げることもできなかった。

「――怪我で私はお前を抱けなかった。…十分に関係あるだろうが」
「な…、なに言って…っ、んぅ」

鉢屋の纏う不気味な静けさに怯える勘右衛門の反射的な抗議は、途中から根こそぎ奪われた。
それは奪うという表現がしっくりくるほどに荒々しく激しいものだった。巧みな舌づかいに翻弄されて、抵抗する意思はすぐに溶けてなくなってしまう。官能的な心地よさの中を勘右衛門はふわふわと漂う。

「―――――――…~~~~~ッ!!?」

突如、とろけていた勘右衛門の脳髄を雷が駆け抜け、目の前が真っ白になった。 身体を突き抜けるような激痛に体が仰け反り、それにより離れた唇と唇の間に一瞬だけ銀の橋がかかって儚く切れる。激痛と闘う勘右衛門は事態を把握できず痛みの元と思しき腹部へ目をやった。

「――――い…ッ、たァ………ちや、なに…や……て、…あぐ、ぅ…ッ」

激痛は負傷箇所を鉢屋がぐりぐりと抉ることで生じていた。勘右衛門は痛みから逃れたい一心で自由な方の手に全力を込め鉢屋の腕を退けようとする。しかし鉢屋は意にも介さず抉り続ける。痛みの激しさに勘右衛門の目の前に激しい光が明滅する。

「…やめ…っ、い――…、ッたい…ッて、ば―――――…ひぁっ?!」

切れ切れに抗議していた最中、痛みの合間に肌が粟立つような快感がぞくりと背筋を這いのぼった。恐る恐る視線をその感覚の出所、自分の脚の方へやった勘右衛門は信じられない光景に目を剥いた。―――鉢屋が自分の膝で勘右衛門の股間をさすっていたのだった。

「ちょ…ッ―――は…ちや、何して――…っ、いッ―――…」
「痛い痛い言ってるわりに、こっちは嬉しそうだぞ?もっと痛くしてやるから喜べ」

渾身の力で暴れる勘右衛門を、鉢屋は気にするどころかクスリと笑いながら、恐ろしい言葉を残して痛みにあえぐ彼の耳に舌をねじ込んだ。同時に傷を圧迫する指にさらに力を込める。快感とすさまじい痛みが神経を駆け回り、勘右衛門は絶叫した。

「――――…っ、勘ちゃんッ!!?」

突然、部屋の戸が勢いよく開け放たれ淡い光と共に聴き慣れた声が飛び込んできた。
まだ薄明るい空を背負い灯を手にした人影。全力で駆けてきたのか、肩を上下させ荒い呼吸を繰り返している。

「…へ、すけ…?」

呆気にとられた勘右衛門が思わず掠れた声でその名を呼んだ。兵助は荒い息を整えながら声に反応して顔を向け、瞬時に顔色を変えた。すぐさま勘右衛門に覆いかぶさっていた鉢屋を掴んで乱暴に放り投げ、床に転がっていた勘右衛門をそっと抱き起こした。
勘右衛門の負傷箇所を素早く確認し、額に浮いた脂汗を拭って上衣を正すと、兵助は凄まじい形相で鉢屋を睨みつけた。親しみ慣れた相棒の気配と優しい腕に安堵した勘右衛門は、そんな兵助を見上げ『鬼みたいな顔して…美人が台無し』なんて呑気なことを考えていた。疲弊しきった彼の脳は状況を把握することを拒んでいた。

「―――…三郎。お前、本当に最低な野郎だな」

兵助が低い声で唸る。放り投げられた鉢屋は勘右衛門と兵助を睨んだまま無駄のない所作で静かに立ち上がった。二人を見下ろして兵助に負けず劣らず低く恐ろしげな声で唸る。

「兵助…何しに来た。邪魔をするな」
「――今、勘ちゃんに何をしていたか、言ってみろ…」
「お前には関係ない。これは私と勘右衛門の問題だ」

勘右衛門は二人の声をまるで二匹の獣が互いに牽制し合い唸っているようだ、などと他人事のようにぼんやりと聞いていた。

「―――勘ちゃんが怪我をしているのをいいことに、勘ちゃんを思い通りにしようなどと下劣極まりない…下種が」
「…なんだと?」
「下種だと言ったんだ。聞こえなかったか短小早漏卑猥男。友人の身体を自分の都合のいいように扱おうとする最低野郎など下種でも十分すぎるくらいだ」

怒りが沸点に達した兵助の下品な言葉のオンパレードに、鉢屋が黙り込んだ。
こんな状態の兵助を見るのは初めてなのだろう…驚くのも無理はない、と勘右衛門は思った。しかしそれはぼんやりとした彼の思考が導いた、一番優しい展開だった。

「…兵助…やはりお前―――私と勘右衛門のことを知ってるんだな…?」

その一言で、勘右衛門は現実に叩き落された。
激怒していた兵助も急に勢いを失い、さーっと青ざめた。申し訳なさそうに腕に抱えた勘右衛門に視線を落とす。
そんな兵助を見て、現実から逃げ回っていた勘右衛門の心がようやく、自らの行く先を定めた。肩を落とす兵助に微笑してひとつ頷き、彼から身を起こして鉢屋を見上げた。昏い表情で睨みつけてくる鉢屋と対峙する。

「……お前、兵助にバラしたな…?」
「…あー、そういえば誰にも秘密にするって話だったっけ?忘れてたー。この際面倒だからぶっちゃけちゃうと、鉢屋が思ったより下手クソだったから飽きちゃってたんだよね。期待外れってその分ガッカリもデカいからさ、ついつい兵助に愚痴っちゃってたや」

面倒くさそうに天井を見上げて頭を掻く。突貫作のぶっつけ本番設定だというのに、誤魔化そうと奮闘していた時よりも自然と言葉が口から出てくる。そんな自分に勘右衛門は内心で呆れつつ、わざとらしい笑い声をたてながら憤怒に燃える鉢屋を眺めた。

本当は友人に戻れるよう上手く立ち回るつもりだった。しかし、予定よりも早く鉢屋と正面からぶつからざるをえなくなってしまったこと、思いの外鉢屋がこの契約に執着しているらしいことなど、予想外がいくつも重なって事態は石が転がり落ちるように悪化していった。
叶わない片想いをしながら体を重ねる虚しさに、勘右衛門の心はもうずっと悲鳴をあげ続けていた。それでも手放せなかったその腕を、手放す覚悟がようやく固まってきていたのに、考えても考えても円満に契約を解消する良い手は浮かばず途方に暮れた。
知られてしまった怪我を理由にしても中断はできても破棄することはできないだろう。もし破棄を受け入れてくれたとしてもこれだけの執着があれば、雷蔵に思いを告げられない鉢屋は傷が癒えた頃再び関係を要求してくるだろう。その甘い誘惑に抗うことは、勘右衛門にはきっと、できない。堂々巡りだ。

この契約を続けた未来、勘右衛門の掌に残るのは悦びと虚しさだけ――。

前の関係に戻りたいなど甘い考えだったことを、ここにきて勘右衛門は思い知った。
一度肌を合わせたその時点で、もう戻るという選択肢はなかったのだ。

もう、戻れない。ならばいっそ、すべてこの手で―――。

“最善”に向かい彼の筋書き通りに物語は展開していく。心は定まっていた。

「そんで、おれ契約違反しちゃったわけだけど、鉢屋が必要ならおれ別にカラダ貸してあげてもいいけど?まだ手遅れじゃあないよ、兵助にしかしゃべってないし、兵助は他人にそういうこと話す奴じゃない。雷蔵には内緒にしといてあげる。まぁ期待外れとはいってもそこそこは上手いしねー」

勘右衛門は顔を伏せ沈黙している鉢屋に、罵詈雑言のほうがマシと言われそうな言葉を投げつける。ついに、鉢屋の中で怒りが振り切れる音がした。

「―――馬鹿にするな…!お前みたいな色魔誰が要るか!――…吐き気がする。二度と友人のツラして私に話しかけるな!!」

最大音量で怒鳴りつけた鉢屋は足音荒く去って行った。
ぽかりと開いた、闇が濃さを増した空間に勘右衛門と兵助の二人だけが残された。

座り込んだまま微動だにしないでいた勘右衛門を、兵助がそっと引き寄せる。されるまま兵助の胸に頬を当て寄りかかる姿勢になった彼の背中を、兵助は赤ん坊をあやすようにぽんぽんと優しくたたく。勘右衛門はうっすらと苦笑した。

「――なんだよ…、へーすけ……おれ、赤んぼ、じゃ……な……―――」

勘右衛門はそれ以上言葉を紡ぐことが出来なかった。頬を冷たいものが伝う感触に指で頬をこすり、ようやく自分が涙を流していることに気が付いた。乱暴に袖で拭おうとする勘右衛門の顔を、兵助が己の胸元にぐいっと押し付けた。

閉ざされた視界に、立ち去る直前に向けられた鉢屋の目がありありと蘇る。 怒りと侮蔑に満たされた、薄い色。
今も目の前から睨まれているかのように突き刺さるその視線に、心臓を握りつぶされるような感覚に陥る。

契約破棄は完了した。これで苦しみは無くなる。――…はずだった。けれど勘右衛門の脳裡をよぎる未来の己の姿が胸を締め付ける…―――自分はきっと寂しさに、悲しみに夜ひとり泣くのだろうと。
これが“最善”なのだ、そう必死に言い聞かせてもその痛みが和らぐことはなかった。

――おれが壊した。
もう二度と、おれの好きなあの琥珀色の瞳は、おれをまっすぐに見つめることはない。おれに向かって微笑むことはない。―――そう二度と。

いつの間にか優しく撫でる動きに変わっていた兵助の手に促されるまま、勘右衛門は兵助の胸元を濡らした。
記憶にもないくらい、これまでになく止めどなくあふれてくる感情をもてあまし、ただそれがこぼれてゆくのを、勘右衛門はぼんやりと感じていた。

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