FC2 Analyzer
伍、雨夜の逃亡者 - 室町狐狸合戦! //落乱-鉢尾小説 

長雨のせいだ。

恨めしげに空を見上げて、勘右衛門は自分の気持ちが沈んでいるのを天気のせいにした。
ここ数日どんよりと重苦しい雲が学園の上空を占拠していて、それがまるで自分の心を反映しているみたいだ――なんてことを一瞬だけ考えて、勘右衛門は自嘲の笑みを漏らした。

伍、雨夜の逃亡者

どんなに暗い夜も必ず明ける。

全て壊して終わりに。そう思ったあの日も次の朝は変わらずやってきた。
昨晩あんな事件があったことが嘘のように、その日の鉢屋はいつもの鉢屋だった――勘右衛門とほとんど関わらない以外には。委員会の仕事で必要なことと、雷蔵や八左ヱ門、兵助と共にいる時の最低限のやりとり以外は徹底的に勘右衛門の存在を無視していた。

一方の勘右衛門もまた、鉢屋に避けられているなんて事実はないかのように何ら変わることなく日々を過ごしていた。…得意の害のない笑顔を顔に貼り付けて。いつもの明るく元気な勘右衛門でいることは、弱みを晒すことを良しとしない勘右衛門にとって日常的に行ってきたことであり、難しいことではなかったのだ。勘右衛門が“いつも通り”に振舞うのは、雷蔵に二人の不和を、ひいては契約について知られてはならないからだ。嫌われてしまっても、勘右衛門は鉢屋のことをまだ好きだったから。

ずっと“いつも通り”の生活を続けているためか、勘右衛門は夜、寝床に就くと寸分の間もなく眠りの世界へ堕ちていく。暫くは侮蔑を宿した薄色の瞳を夢に見て泣きながら目覚めることもあったが、十余りの夜を数えた今では夢自体ひとかけらも見なくなった。しかしどれほど眠っても疲れは取れるどころか逆に重くなる気すらする有様で、だるさが常に付きまとい勘右衛門は心身共に消耗していった。

日に日に深まってゆく秋色に抱かれた忍術学園は昨日から秋休みに入っていた。実家が農家の子が稲の収穫を手伝うための短い休暇である。そのため学園に残っている生徒も多いが、あいにくの空模様が続くせいか外出する者は少ない。
そんななんとなく締まりのない雰囲気の休暇、つまりこの2日間のほとんどを勘右衛門は図書室の隅で過ごしていた。途中後輩たちの課題に付き合ったりしながら座学の自習にいそしみ、気分転換に本の世界にのめり込む。本の世界は今の勘右衛門にとって安息の場所だった。

「勘ちゃん」

安息の地から呼び戻されて顔を上げると、いつの間にか向かいに兵助が座っていた。読んでいたらしい本を閉じた兵助に食事を共にと誘われたが、勘右衛門は食欲がないからとそれを断った。いつもは勘右衛門の体調に関わる事には母親のように口うるさい兵助なのだが、ここ数日はしつこく文句を言うこともなく今回もただ、そう、とだけ返してきた。

「でもそろそろ図書室も閉まる時間だし。一緒に戻ろう」

それを聞いて兵助の言う“食事”が夕食であることに思い当たり、勘右衛門はずいぶん長いこと図書室に入り浸っていたことに気付いた。見ると図書室には受付に座した委員長の中在家先輩以外誰も残っていなかった。そこで二人で貸出手続きを済ませ、図書室を後にすることにした。取り留めもない話をしながら人気のない廊下へ出ると肩を並べて長屋へ向かう。
朝以来の外気は思いの外肌寒く、日が沈んだ後の薄闇に雨が静かに降っていた。

「…なあ、勘ちゃん。――…三郎のことなんだけど」

部屋に戻るや否や、兵助は唐突に話題を変えた。
勘右衛門は憂鬱な気持ちを口を噤むことで抑え、しかし兵助の話を無視するつもりはないと目だけで先を促した。

「どうしてあの時、あんなひどい嘘ついたんだ。素直に…好きだったんだって、言えばよかったんじゃないのか」

直球の問い。勘右衛門は口を噤んだまま目線を落とし、それには答えない。

「あの時は動転していたから疑問に思わなかったけど。今冷静に考えると、嘘つく必要はなかったと思うんだ。三郎が気持ち悪がる事への恐れは有り得ないし。“本当は好きだったから辛くなった、だから終わりにしたい”、それだけでよかったんじゃないか?そしたら――ここまでギスギスした空気にはならなかった、と俺は思う」

兵助はいつもの端的な言葉で、しかしそっと触れるように柔らかい口調で語りかける。長年相棒を務めてきた兵助の優しさを纏った的確な言葉たちに、沈黙した勘右衛門の瞳が揺れる。

「俺さ、勘ちゃんは勘ちゃんの矜持を守るために嘘をついたんだと思ってるんだけど…違うか?」

確認に似た形の問い。兵助はいつだって勘右衛門のことは御見通しだ。
勘右衛門はそれに答える代わりにきゅっと唇を引き結び、肯定の意を示した。しかし兵助はじっと勘右衛門を見つめているだけでそれ以上何もしない――堅く、言葉での答えを待っていた。
暫しの間をおいて勘右衛門は短く息を吐いて腹をくくると、顔を上げて兵助をまっすぐに見返した。

「ああ、そうだよ。兵助の言う通り」

静かな雨音の中に、勘右衛門の声だけが響く。兵助を真摯に見つめて言い切った。が、その後すぐに目線を外し、自嘲気味な微笑を浮かべた。

「自分で契約を提案した癖に勝手に辛くなって、怪我までしちゃって。隠したかったのにそれも治る前にバレて。それで鉢屋に…おれを好きじゃないって分かり切ってる鉢屋に、お前が好きだなんて心の裡まで晒すなんて…惨めで耐えられなかった」

水底に沈んだような、静かで冷え冷えとした勘右衛門の瞳を見つめる兵助のそれが僅かに歪む。

「そうだよ。おれは好きな人を傷つけて自分の矜持を守った最低野郎だよ。…もう全部壊してやろうと思って」

痛そうな表情のままの兵助に、半分くらいはヤケだったけどね、と笑って付け足す。

「…雷蔵も八左ヱ門も違和感を感じてるのは分かってるし…兵助にも。居心地の悪い思いをさせてすまなく思う。でも、おれはもう何もするつもりはないよ。おれは鉢屋の答えを知ってる。友達としての関係も壊した。そんなおれが今更何かやった所で…」

ガタン、

通夜のように鬱屈としたふたりぼっちの空間を、やや大きな物音が破った。
ハッとして音の元へ首を巡らせると、開いた戸口に鉢屋の姿があった。背後に雷蔵と八左ヱ門の姿も見える。シン、と場が凍りつく。

「――……な、…さ、三人とも…いつからここに…!?」

まず解凍したのは兵助だった。未だ固まったままの勘右衛門を伺いつつ尋ねたが、とっさに答える余裕を持ち合わせている者はいなかった。再び嫌な沈黙が降りる。
兵助の額に冷や汗が滲む。もし彼らが今来たのでなければ、五年い組として、忍術学園の五年生としてあってはならない失態――否、そこは問題ではない。今回の事態のほぼ全ての真実が明るみに出てしまったことになる。―――長いこと秘めてきた勘右衛門の思いすら。

「――――…今の、話……何?」

雷蔵が驚きのままにぶつ切りの呟きを漏らす。事態を察して青ざめた兵助は、皆が未だ驚愕に凍結している中、奇妙なほどに冷めた表情のまま放心した勘右衛門をじっと見つめる者の存在に気付き目を瞬いた。

暫し意識を放り出していた勘右衛門は、幾度も兵助と雷蔵の発言を反芻してようやく事態を把握するに至った。ぐあっと顔に血が上ったが、冷静に自分を見つめている視線を感じすぐに我に返り――鉢屋と目が合う。途端に取り繕う余裕もなく今度は真っ青になり、逃げるように天井裏へ姿を消した。

***

屋根から夜の学園へ降り立った勘右衛門は、混乱したままがむしゃらに駆けた。

――知られた知られた知られた知られた知られた知られた!!

ただそれだけが思考を埋め尽くす。目的地があるわけではなく、ただあの場から、友人たちから、現実から逃げ出したかった。ひたすら走り続ける勘右衛門の行く手に建物が立ちふさがり、方向転換のためやや減速する。

「ま、て…!」

瞬間、追う者の常套句が耳に届くと同時に勘右衛門は後ろから腕を掴まれた。掴み方が乱暴だったのと混乱の余りそれを察知できなかったのとで、勘右衛門は体勢を崩して背後の人物諸共地面に転がった。びしゃり、と音を立てて水が跳ね、水と土の臭いが勘右衛門を包む。
そうだ、雨が降っていたんだっけ。勘右衛門は全身が冷たい水を含んで居ることに今更気が付いた。

「…はぁ、…わ、るい」

下から息切れの合間に小さく謝られたが、勘右衛門は汚れも怪我もしていなかった。むしろ下敷きにした相手こそ泥まみれだったが、それを慮る余裕は一瞬で消え失せた。
懐かしい体温、体越しに響く声音に、勘右衛門は慌ててその人物から体を離した。が、彼が退くより先に腕を掴まれ相手に覆いかぶさった体勢で留められた。勘右衛門は相手の顔を見ることなく顔を背け、強く目を閉じた。

「…かんえもん」

呼ばれ、勘右衛門はビクリと身を強張らせた。
腕を掴む手つきは優しい。
ひどく懐かしい、冷たさを帯びぬ柔らかなバリトンが勘右衛門の鼓膜を、心を震わせ、瞳が揺れる。

そんな風に名前を呼んだりなんか、するな。
これ以上おれをみじめにさせないでくれ…。

勘右衛門はギリ、と唇を強く噛みしめた。

「かん」
「離せよ…」

勘右衛門は顔を背けたまま拒否の言葉で相手を遮る。
顔なんて見なくても相手が誰かなど分かり切っていた……今最も相対したくない、まさに逃げたかった人物。

掴まれた手を振りほどこうと腕をふるったが、逆に軋むくらいの力を籠められ痛みに勘右衛門の顔が歪む。腕を掴んでいるのとは逆の手で胸倉を掴んで引き寄せられ、体勢を崩した勘右衛門は思わず下を向いてしまった。見下ろす者と見上げる者の顔と顔との距離が縮まる。

「…………さっきの、…本当なのか………?」

至近距離から問いかける薄色の瞳はゆらゆらと揺らめいている。そのどこにも、夢でさえずっと勘右衛門に刺さり続けた侮蔑の色も、見たくなかった同情の色も見つけられず、自分ただ一人が写り込んでいることに勘右衛門はひどく動揺した。
雷蔵に聞かれてしまった絶望感と鉢屋に思いを知られてしまった羞恥に苛まれる一方で、鉢屋がどう思っているのかを全く推測できないことに混乱していた。余りにもたくさんのことがいっぺんに起きて様々な感情がからまってしまった勘右衛門は、ただその瞳を呆然と見つめることしかできない。
と、鉢屋が僅かにくっと見開いた。それが自分が今とてつもなく情けない顔をしていることによるものだと思い当たった勘右衛門は、瞬時にぱっと顔を逸らした。

「…おい」
「―――っあーーーそうだよ!!!」

それ以上行動を起こさない勘右衛門に痺れを切らした鉢屋が再び胸倉を引っぱると、勘右衛門は急に大声を出した。急な行動に鉢屋が驚きたじろぐのにも構わず、勢いよく鉢屋の顔に己のそれを近づける。
少し顔が熱を持っている自覚はあったが、だからどうたというのだろう。もう勘右衛門には、鉢屋に隠しておきたいことなど何も残っていないのだ。

「おれはお前が好きだったの!だからあんな提案したんだ!でもやっぱり辛かったから辞めたかったの!お前におれの気持ち知られたくなかったから嘘ついてたんだよ!!最初から最後まであれもこれもぜーんぶ嘘さどーだビックリしたか変装名人の観察眼も大したことないな!!」

勘右衛門は今までの沈黙が嘘のように大声でかつ怒涛の勢いで喋り出した。もうどうにでもなれ!とやけっぱちで隠していた全てをぶちまける。寸分の間をおかず、呆気に取られている鉢屋の腹に膝蹴りをお見舞いして立ち上がった。さすがの鉢屋も至近距離から渾身の一撃を受け、うめき声をあげながら腹を抱えてうずくまる。

「迷惑かけてやな思いさせて悪かったな、もう迷惑かけないから安心しろ!」

未だ錯乱中の勘右衛門は想定外のハイパワー攻撃に唸っている鉢屋を何故だか仁王立ちで見下ろして偉そうに宣言し、そのまま何処かへと逃走した。

[ ←前 | 次→ ]


[ ][ ]